掴んだその手を

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掴んだその手を

 時間というものが記憶の積層ならば、柔らかい過去を掘り進むのは容易い。瞬間はガラスよりも薄い。手を伸ばすと簡単に割れる。砕けた夢片には手触りがあった。  僕は叔父さんとの別れの朝の記憶と離れ、自分自身のアーカイブを手探りし多彩な記憶に触れながら墜ちた。  それはセピア色なんかじゃなかった。過去と現実の二枚の凹凸レンズを両端に持つ細長い望遠鏡の筒の中にいるみたいだった。その中は空洞ではなく、僕が割った記憶のフラグメントに溢れている。もし誰かが今これを覗くことが出来るなら望遠鏡じゃなく万華鏡だと感じるだろう。そんなことすら考えるほど死の終着点は遠かった。落下の先には死の向こうを見せるレンズがある筈なのに、今僕が見下ろしているのは生の瞬間の輝きだ。虚空で足掻きつつ終わらない墜落に身を任せながら、不思議に思い頭上を振り返った。見上げると死の瞬間の割れたレンズの向こうに大惨事の黒煙が見える。僕はあの割れた隙間から自分の生涯を遠見する望遠鏡の中に迷い込んだのかもしれない。  十六年というのはあまりにも短い人生だと思う人もいるだろう。けれどこうして割れた記憶に次々に触れ、その詳細を肌に感じ、色の氾濫に身を任せていると、とても幸福な時間を過ごして来たんだなあと感慨深かった。叔父さんや美咲さんや友人たちと過ごした時間、そして幼い頃の小春と過ごした時間。 「……小春に会いたい」  それだけが心残りだ。  長いようでやっぱり僕の人生は短かった。もうそろそろ落下も終わる。心残りのことを後ろ髪を引かれると表現することもあるが、比喩ではなく本当に僕は後ろ髪を掴まれた。誰かが記憶の一欠けらの中から手を伸ばしていた。だがその掌の握力はあまりにも弱かった。結んだ拳の隙間から僕の髪が擦り抜けてゆく。僕は右腕を伸ばし、その小さな小さな手に触れた。しっかり掴んだ。小さな手の持ち主の姿を確認しようと目を凝らし記憶片を見た。小さな姿の彼もまた落下しようとしている瞬間だった。けれどはっきりとは見えない。それは僕の記憶ではないのかもしれない。  落ちようとする僕を小さな小さな彼が懸命に救い上げようとしていた。僕も小さな命を落とすまいと右腕の筋骨に渾身の力を入れ引き上げた。小さな命の足元には大きな闇が縋っていて、彼を死に落とそうとしていた。 「離すもんか……離すもんか……離すもんか絶対に、この手を!」  歯を食いしばり喉の奥で吼えた。僕は小さな命を引き上げた。小さな命も僕を引き上げた  走馬の両端にある二つの交通死亡事故が重なった。大型車の轍に巻き込まれる僕を救う為に、谷へと落下する原初の君は時間を叩き割って現れた。だから僕も君を受け取って抱き上げたんだ。  異なる方向にある二つの衝突の均衡が崩れ、垂直だった時間の望遠鏡が大きな音を立てて横倒しになった。その衝撃で僕の人生の筒の横っ腹に裂け目が出来た。小さな君がその隙間から外に躍り出して行った。僕は手を引かれるままその後に続いた。   
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