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神戸へ
臨死と死は違う。
死は無になる事で、臨死は己の死を知らしめる場に立つことだ。
峠で大型車の前輪にバイクごと巻き込まれた記憶が揺らぐ。そもそも僕を潰せるあんな巨大なタイヤを履くトレーラーが片側一車線の峠道を走行出来る筈がない。その時点での臨死の引き伸ばされた体験の不可解。
そして気が付けば赤ん坊を抱いて峠を歩いていた。その徒労の果てに力尽きた二回目の臨死。
目が覚めた......って事は僕は無ではない。
どこなのかも分からない小さな病院で治療を受ける間、辛辣が刻み込まれた顔をした初老の医師から追求があった。
僕は包み隠さず自分の起こした事故のことを告げた。
「詳しい話は警察にきちんと伝えなさい」
と言われた。
赤ん坊のことを尋ねると、怪我はなく衰弱しているが命に別状はないらしいが暫く入院させるとのことで、取り敢えずは安心した。
僕も骨には異常なかった。死んでもおかしくなかった正面衝突でバイクを巻き込まれた筈なのに、膝頭を十針縫っただけだった。
「けれど君は全身打撲が酷く、頭も打っただろうから。ここは小児科個人医院だから設備が無いので、明日改めて大きな病院で検査をしなさい」
と勧められた。
革ジャンを着ていたことが良かったのだろうと看護婦が言いながら、ライダースジャケットと捩れたネルシャツと破れたスキニージーンズとエンジニアブーツを戻してくれた。汚れたそれに着替え病院の検診衣を返却した。スキニージーンズの裂けた膝から包帯が覗いていた。
電話する許可を貰い、病院のロビーまで歩いて降りた。事故でスマホを失くしたので、見たこともないピンク色の古臭い形の公衆電話に硬貨を入れ、自宅の番号に掛けた。ダイヤル式の電話を使うのは初めてで巧く回せなかったのだろうか、「この電話番号は現在使われておりません」との案内が流れた。
僕は改めてダイヤルに入れる指を確認しながら回転させた。だが流れる音声は一緒だった。何度やっても同じだった。記憶力の欠落に深く溜息を吐きながら、一旦諦めることにした。
待合室のソファーで僕を助けてくれた、僕が死神と勘違いした男の人が巨体を横にしているのを見つけた。
彼は僕の気配に気が付き目を覚ましたようだ。
「待っていてくれたんですか?」
僕は言った。
「ああ、東京からずっと寝らんで運転して来たけん、待っとるとは仮眠に丁度良かったばい。怪我はどげんや?」
「東京からですか? 僕も東京から来たんです。あっ、僕の怪我は大したことありませんでした。赤ちゃんも無傷でした。お急ぎのところ助けて貰って本当にありがとうございます。家族と連絡取れなくてちょっと不安なんですが、後は警察の方にお任せして何んとかします」
「そうか。じゃオイは急ぎよるけん、行くけん」
「どちらに向かわれるんですか?」
僕は尋ねた。
「神戸に決まっとるやっか。だけんグズグズしておられんとさ」
「神戸ですか? 僕もバイクで神戸に向かってたんです」
「何やお前もボランティアに行くつもりやったんか?」
「ボランティア?」
僕は首を少しだけ傾げた。
「オイは救援物資ば運ぶ途中やっけん、本当はヒッチハイカーとか無視して先ば急ごうと思うたとけど、赤ん坊ば抱いて血だらけで地面に蹲った奴ば見捨てる訳にはいかんやろうが」
「救援物資? 神戸で何かあったんですか?」
「地震に決まっとるやろが! 昨日の大地震」
男の顔が一瞬険しくなった。
僕は絶句した。
どう見ても目の前の巨体の男の言葉は冗談ではなさそうだった。まさか神戸を再び大震災が襲うなんて想像もしなかったからだ。
真っ先に小春の安否のことが気になった。
「僕も一緒に連れて行って下さい!」
次に僕の口を突いて出た言葉はそれだった。
男は太い眉の下に奥まった眼孔で僕を真摯に見下ろし睨んだ。
見返す僕の瞳にはそれに負けない真剣な光が走っていた筈だ。直情が溶けた液体が自分の頬を流れていたからだ。
「行くとか? だったら今すぐ発たんと時間がない」
男はそう言って僕に肩を貸してくれた。
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