無責任な逃走

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無責任な逃走

   僕は再び古いトラックの助手席に戻った。  膝の上には赤ん坊はいなかった。無責任かもしれないが、あの小さな命は病院と警察に任せていた方が安全だと自分を納得させた。そう思い込むようにしたのは何故だかこのまま別れるのが見捨てるようで心苦しかったからだ。  車は素早く走り出した。病院の駐車場出入り口で赤色警告灯を消した警察車両とすれ違った。 「事故ば起こしたままで警察から逃げたら迷惑なことになるぞ」  男が心配そうに言った。 「それは分かっています。それは分かっているんですけど、どうしても神戸に行きたいんです。行かなきゃならないんです。僕にとって今......一番大切なことは、神戸へ行くことです。怪我はしているけれど絶対足手纏いにはなりません。頼りなく見えるかも知れないけれど、ボランティアの知識も経験もあります。神戸のことが落ち着いたらちゃんと警察に出頭します」  僕は震える唇で言った。 「そうか。そんなら何も言わん。神戸に連れてってやるけん。ところでお前の名前も歳も訊いとらんやったな」  男は言った。 「あ、名乗ってなくてすいません。東海林です。二十歳です」  僕は咄嗟に年齢を誤魔化した。高校生だとばれると厄介だと思ったからだ。 「二十歳にしちゃ幼く見えるな。オイはタカアキ。皆からタカって呼ばれよる。よろしくなショージ」  それから少し会話して、どうやら彼は僕の苗字を下の名前と勘違いしているようだと気が付いたが、年齢を誤魔化したついでにその呼び名を訂正しようとも思わなかった。  僕らには奇妙な共通項があった。東京に住まいがあること、神戸に離れた恋人がいること、そしてその人に会うために昨日東京を出発したこと。  僕は事故を起こすまでずっとバイクで走り続けていたので地震が起きたことを全く知らなかった。出発するまでテレビも新聞も見なかったし。  そういえば地震が起きた後の時間、僕が美咲さんの朝食画像をSNSにアップしたとき小春からのレスポンスがあったことを思い出した。あれは地震の起きたらしい時間よりも後だ。彼女は無事なんだ。でも、なんで自分が無事なことを連絡してこなかったんだろう?  不安は消えなかった。その後の安否を尋ねようにもスマートフォンはバイクと一緒に谷底で燃えてしまったから連絡の取りようがなかった。  タカさんも同じだった。逸る気持ちは荒い運転に現れていた。その苛立ちのベクトルを僕に向けることはなかったが。  神戸への電話は全て不通だったらしい。彼は携帯電話を持っていなかったし、相手も持っていないらしい。彼は災害用伝言ダイヤルのことも知らなかったし、それを教えても利用出来なかった。回線の輻輳状態は想像以上に深刻だった。だからタカさんはアクセルを強く踏んで自分の足で解決しようと考えていた。  僕は2トンもの積荷について尋ねた。それは全てが救援物資らしい。車は知り合いの運送業者から普段使用していない廃車寸前のものを急遽借り受けたそうだ。途中でエンジンの調子が悪くなったので高速道路を降り、急ぎの修理を終えて幹線道路を走っている最中に赤子を運ぶ僕を見つけたそうだ。  僕はその偶然に感謝せざるを得なかった。  車内は凍るほどに寒かった。それでもタカさんは半袖姿のままで自分の手に負えない滾る血を冷ますかのように刺青だらけの上腕部から微かな蒸気を発していた。
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