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肉眼のリアル
トラックは迂回を繰り返し、やっと目的の神戸港で止まった。不思議だったのは車が一台も走っていなかった事だ。すぐ近くで緊急車両のサイレンの音が響くのに。
一旦、車外に出た。肌を突き刺すような海風が粉塵の臭いを交えて吹いていた。
僕は寒さに身震いしながらライダースジャケットのジッパーを首まで絞めて襟を立て、不快な空気を吸いたくなくて鼻と口を押さえた。さすがにタカさんも寒かったのだろう、軍物放出品らしきN‐3Bのシュノーケルジャケットを羽織ってファーの付いたフードを頭に被っていた。サイズの合っていないタイトな窮屈感が彼の巨体を誇張していたが、その雰囲気は港に降り立った米兵にしか見えなかった。
タカさんは夢遊病者の如くふらふらと歩き出した。僕はその後を続いた。辺りの光景に地震の形跡らしきものは皆無だった。修学旅行で訪れた時と全く変わっていない印象だ。唯一例外はメリケンパークの割れて沈んだ長い岸壁の羅列だったけれど、それは前の震災を忘れない為に残されたメモリアルモニュメントだった。
二年半前、自由行動の時間に待ち合わせた小春とここを歩いたことを思い出し切なくなった。
あれが好意が恋に変わった瞬間だった。ずっと再会を待っていた。一秒でも早く彼女に会いたい。途中で大怪我はしたけれどなんとか神戸に辿り着くことが出来たのだから、いつまでもタカさんの茶番に付き合っている暇はない。助けて貰ったお礼を言って早々に別行動をしようと思った。
小春のことを考えたとき、それが遠くて手の届かない記憶のように思えた。彼女はすぐ傍にいる、もうすぐ会える筈なのに。
寒くて堪らないのに背中に汗が滲んでいるのが分かった。
目を閉じると小春の笑顔の像が望遠鏡の中に閉じ込められてしまうイメージが浮かんだ。それは砕けて万華鏡を彩る破片の一部に変わってキラキラと舞いだした。
僕は強烈な頭痛と嘔吐感に襲われた。事故を起こしてから何も食べていないので胃の内容物を吐瀉することはなかったが、饐えた臭いの無の悪寒が込み上げてくるのを必死に絶えながら何度も空えづきした。
万華鏡の煌めきが沈殿し望遠鏡に戻ったとき、僕はそのイメージを頭の中から叩き出そうと目を開けた。
モニュメントが見えた。
僕は違いに気が付いた。水に浸かった岸壁の端を覆っていた緑色の苔が消えていた。罅割れ裂けた断面が生々しい石本来の色だった。波の上には無数の瓦礫が散乱し漂っていた。
一回の長い瞬きで風景が一変していた。
目の前には人の手の加えられ残されたものではない、破壊し尽くされたばかりの混沌が拡がっていた。
僕は愕然とし膝を着いて現実に手を伸ばした。やはり二度目の大震災は本当だった。
さっきまで僕が見ていた日常的な平穏たる風景の方が僕の夢想に過ぎなかったのかもしれない。あれは僕の願望が湾曲したガラス越しの虚構、レンズ越しの遠景だった。
今まさに肉眼で見ているものが真のリアルだ。
だって僕は罅割れた地面をこの手で触っているのだから。
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