19人が本棚に入れています
本棚に追加
安否確認
僕は顔を上げ、タカさんが力無く歩いている後姿が段々と小さくなるのを見続けた。
彼を包む風景は、全てが濃淡の灰色で描かれた色の無い世界に見えた。その遠景は日常そのものの、僕の見知った穏やかな神戸だ。
けれど膝の傷の痛みを堪え早足で彼の後を追うと、日常的な風景が揺らぎながら惨劇の画に変わり始めた。
アスファルトが隆起して、暴逆なテーマパークの絶叫アトラクションのような鋭角な凹凸の渓谷を造り出し、地面の裂けた孔や穴からは、破裂した水道管の清水が身を汚した己を呪うように吐いて湧き出した泥濘で足元を濡らした。
角度の極限を競い合うかの様に、独自の主張で傾いだ建物たちから、無数の黒煙が大なり小なりの蛇や龍のように立ち昇って、落ちそうな閉じた空と交じり合っていた。
自分が手の触れられる範囲だけが地獄絵図として塗り変えられるのが強烈に奇妙で気が狂いそうになった。
パースペクティブの中でピントを合わせた部分だけ輪郭が強調されるように、僕の視神経は何も起こっていない神戸の遠景と、崩壊した神戸の近景を同時に認識していた。
僕は混乱しながら転がるようにタカさんの後を追った。
彼は力弱い歩みを止め、港を越えた先にある半壊した建物の前で立ち止まった。息も絶え絶えにやっと追い着いた僕は、ガラスが割れて枠だけになってしまって外れ立て掛けてある戸板に貼られた殴り書きのメモを彼の脇から覗き込んだ。
タカさんの顔に明るい赤味が戻ったと同時に瞳から涙が溢れ出した。
彼は太い腕で両目を隠し、止まらない雫を一瞬で拭い去ると、太い腕で僕をベアハックした。背骨が折れるかと思った。唯でさえ昨日の全身打撲の痛みが残っているのに、お構いなしの熱い抱擁だった。
「響子が生きとったばい。響子が生きとったばい」
タカさんはそう繰り返し、地面から浮いた僕を抱えたままで、クルクルと回転した。
僕は平穏と破壊の視界の混濁に苛まされている最中だったのに、喜びのメリーゴーランドで、三半規管をシャッフルされてしまい、縺れる足で立つことに必死だった。
「響子さんって誰ですか?」
僕はやっと圧迫と回転が及ぼす眩暈から解放されて尋ねた。
「嫁さんばい。無事やったばい。こん先の避難所におるってメモに書いてあるばい」
道中で少しだけ話してくれた、彼が安否を心配していた人のことだと理解した。本当に嬉しそうだった。僕も喜んだ。
小春の無事は昨日の朝食時のソーシャルコミュニケイトサイトのイイねの反応で確認済みだ。それを信じたい。彼女の生家もこの地域だった筈だから、もしかするとこれから向かう避難所にいるかもしれないと思った。
「そうとなったら、すぐに行きましょう」
僕は言った。
「当たり前ばい!」
タカさんは僕の肩を抱いて、踵を返して車に戻った。
最初のコメントを投稿しよう!