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ごめんなさい、さようなら
歩きながら考えた。なぜ僕は赤ん坊を抱いてあの場所に立っていたのだろうと。
破れたガードレールと先の黒煙は大きな事故があったことを知らしめていた。地面にはバイクの破片が散らばっていたし、ヘルメットを被っていたし、ジーンズの膝が破け、ライダースジャケットの背中に大きな擦り傷があったし、全身が痛むし。
それは僕がバイクの運転中に激しく転倒したことを推測させるには充分な証拠だ。大型車に巻き込まれたのは間違いないが、その事故の果てに赤ん坊を救出したことなんて記憶にない。そこに至る過程を考えると、また激しい頭痛が起きた。
僕は途轍もなく恐ろしいことを仕出かしたのではないかと、根拠のない罪悪感が湧き上がってきた。
心が時間と同じように思考の中に存在するならば、この頭痛は思考の痛みだ。あの落下で破壊し舞い上がった過去が、その鋭角な破片の全てが、降り注ぎ脳髄に突き刺さったような激痛。罪悪感に目を背け、頭痛を深遠に追い遣り、心を無にして歩くしかないと決めた。
だけど、もう、足が、前に進まない。
意識が朦朧とする。痛みは助けてくれない。寧ろ足枷に成り果てている。考えの中から何度捨て去っても舞い戻ってくる罪悪感がネタばらしをしたくて疼いている。負けまいと思った。己を奮い立たせる為に赤ん坊の顔を見た。
……赤ん坊は瞳を閉じていた。揺すっても、声を掛けても、応えてくれなかった。
僕は涙を流していた。悔しくて仕方がなかった。抱いている小さな命を救えなかったことに。
そして僕も力尽き、膝から崩れ落ち、懺悔するような姿勢で、凍える路面に濡れた頬を押し付け、冬を模した自分知らずの春夜の風に丸めた背中を晒した。
冷たい塊りを胸に抱えたまま。
死に逝きのパターンは何種類存在しているのだろう。
連雀の飛翔ヴィジョンは的外れな想像で、万華に砕けた走馬灯の中の滑落は白昼の単なる夢見だった。
事故の前後の記憶が錯綜しているけれど、今しがたの赤ん坊を抱いた下山は真実に間違いない。
その果てに僕等二人の死が待っていたのは残酷だけれど。
そして今度の終わりは死神の葬送だった。出来ることならばルーベンスの絵画の前で息絶えた少年と犬のように、無垢な天使たちに迎えにきて欲しかった。
丸太のような太さの刺青だらけの両腕を持った死神は、いとも簡単に僕等二人の身体を抱え上げ、使い古して朽ちたゴミ収集車のようなトラックの中に押し込んだ。せめてもの救いはその行為に乱暴さはなく、尊厳を称え敬い丁寧で細やかな扱いだったことだ。
僕は暴虐な見目の彼に身を委ねることにした。抵抗しようにも死体の分際では手足を動かすことは出来ず、低い声の呼び掛けにも返答しようがない。もう意識を保つことも億劫だ。
無になることを黙って受け入れよう。
「……ごめんなさい……さようなら……」
「ありがとう……」
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