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ララナが嫁ぎ先で亡くなったのは、真冬のことだった。極寒の湖で、おぼれ死んだのだ。兄であるブルグはすぐにでも駆け付けたかったが、ちょうどそのころ重い病で寝込んでいて、動く事ができなかった。
ようやく嫁ぎ先であるイットフィールド家を訪れることができたのは、氷が溶けたどころか道に陽炎(かげろう)がたつようになってからだった。
イットフィールドの家は、湖の近くにあった。館の正面から見れば、緑の木々の間から輝く水面が見える。
ノックをして現れたのは、そろそろ背が曲がり始めている歳の女性だった。
「ここの使用人だね。実は、君に聞きたいことがあるのだが」
自分がララナの兄だと名乗ると、使用人は申し訳なさそうに言った。
「あいにく、旦那様は出かけておりますが」
「いや、まず君に話が聞きたいんだ」
「しかし、いいんですか、本当に旦那様に会う前に、私なんかに」
「ああ。隠されていない真実を知るには、主人よりも君のような人に聞く方がいいと思ってね」
使用人の名前は、チェフェリーと名乗った。。
通された彼女の部屋は質素なものだった。
隅が傷んだ床、そまつなベッドと洋服ダンス。窓から差し込む光は薄暗く、見える景色も湖と反対側の、ジメジメとした泥の荒れ地だけ。空気は窓を開けても蒸し暑く、どこかホコリっぽい。
「妹に、何があったのか詳しいことが知りたい。イットフィールドから届いた手紙には、『湖で事故死』としか書いていなかった」
(まるで死んだ者やその兄に、説明する必要も、未練も感じないというようにな)
チェフェリーは座面に傷のある木のイスをブルグに勧めてきた。座ると、少しガタついた。
唯一のイスを客に譲った彼女は、色褪せた毛布のかかったベッドに腰を下ろした。
「奥様は、亡くなる直前、かなり落ち込んでいらっしゃいました」
妹の名前を耳にすると、心の中が波立った。
チェフェリーは、後ろめたいことがあるように、灰色がかった青い目をブルグから反らせた。
「その、少し精神的に不安定になってしまって。あまり物も食べず、口数も減り……」
(そんなことが起きていたなんて、知らなかった)
もともとララナは筆まめな方ではなかったし、手紙を書くとしても兄を心配させまいと悪い事は書かなかっただろう。
「イットフィールドは? 彼はそんなララナを気にかけてくれたんだろう? なんせ夫なんだから」
結婚の許しをもらいにきたとき、イットフィールドは丁寧に頭を下げた。自分がどれだけララナを愛しているか、ララナを守る誓いがどれほど硬いか、彼は語った。どこか軽薄そうな雰囲気が気になった物の、そこまで言うのなら妹を幸せにしてくれるだろう、とブルグと父は許可したのだった。
「旦那様ですか」
そういうチェフェリーは、嫌悪を隠そうとしなかった。
そして盗み聞きもしている者を警戒するように、左右を見渡してから話し出した。
「旦那様は、すぐ奥様のことに飽きてしまわれました。きっと、それが奥様の心を酷く傷つけたんですわ」
「え?」
「奥様とは、ろくに話をする事もなくなり、新しい女の人と仲良くなって」
「女の人?」
「ええ、ネレシーとかいって、どこかの酒場で働いている」
チェフェリーは眉をしかめた。
「あんな女、いい母親になりませんわ。ララナ様といういい奥様がいるというのに、旦那様もくだらない娘に騙されて」
ブルグは沸いてきた怒りを抑えるために、大きく息を吸って、吐いた。
「まったく。父が生きていたらこんな事を許さなかっただろうに」
だが、その父もララナが結婚してしばらくして亡くなってしまった。
大好きな父の死、そして夫の裏切り。きっと、立て続けに続いた不幸でララナの心は壊れてしまったのだろう。
「そのうちに、奥様は一人で湖の畔をさまよい歩くようになりました。時間があれば、湖に行って『ない、ない』って呟いて。家に連れ帰っても、また湖に戻ってしまって。なにせ冬の時期でしたからね。『寒いからお体に触ります』と私がお止めしても、聞いてくださらなくて」
寂しい冬の水辺にたたずむ妹の姿が浮かんだ。
曇り空で色褪せて見える針葉樹。ヒタヒタと寒々しい音をたて、水面が半ば凍った土をなでる。その水際を、うつむいてさ迷いながら、何かを探すララナの姿。
「その朝も、ベッドにララナ様はいませんでした。私もイットフィールド様が知らない間に家を抜け出したらしくて」
チェフェリーの目から涙がこぼれ落ちる。
「すぐにどこへいったか分かりましたわ。湖に向かうと、ああ、思っていた通りララナ様が倒れていて、まるでロウ人形のように土気色をして……ああ、かわいそうに」
「警察は、なんて」
動揺を必死におさえ、ブルグは聞いた。
「なにぶん、冬の事ですので、何かの拍子に水に落ち、凍えて死んでしまったのだろうと」
(怖かっただろうに。寒かっただろうに)
危うく涙がにじむ所だった。
「……イットフィールドに話を聞きたいんだが」
チェフェリーは館の正面の方を見た。
「今は、ネレシー様とお二人で湖にいるはずです」
砂利になっている水辺は温かい。
周りの針葉樹の、何ともさわやかな香り。湖の水面はダイヤモンドをちりばめたようだ。
イットフィールドは、横を歩くネレシーに微笑みかけた。ネレシーの金髪が夏の日差しにきらめいている。
ララナに出会ったころは、彼女の大人しくて従順な所が気にいっていたのだが、いつの間にかそれが陰気に見えるようになり、我慢ができなくなった。
それに比べて、ネレシーは生気があふれて見え、自分の考えをしっかり持っている女性だ。
「本当に気持ちがいいわ」
ネレシーは微笑んだ。
「ああ、それにしても暑いな」
湖の波が涼し気に誘惑してくる。
イットフィールドは、汗でべたついた服を脱ぎ始めた。
「まあ」
下着姿になったイットフィールドに、ネレシーが笑い声を上げる。
足の指先を水につけると、驚くほど冷たかった。夏でもこれほど水が冷たいのだから、冬に落ちればたまったものではないだろう。
「ネレシー! 君も来るかい?」
「私はいいわ」
ララナの事を思い浮かべ、イットフィールドは沖へむかいながら少し笑みを浮かべた。
ララナがベッドを抜け出したあの夜。胸騒ぎを覚え、目が覚めた。
そして何気なくカーテンの隙間から外を見た。小さな灯りが庭を通り過ぎ、敷地の外へと出ようとしている何者かの姿があった。まるで寒さを感じていないように、寝間着一枚で。
カンテラを持って、ウツロな様子で歩いているのはララナだった。
行く場所は分かっている。どうせ、あの湖だ。
(かまわず寝てしまうか)
どうせ、愛も覚めた女だ。なにか事故が起きた所でかまいはしない。
「……」
だがしばらくして起き上がると、イットフィールドは上に服とコートを着込み、家を出た。灯りはララナが持っていってしまったが、月が出ているので歩けないほどではない。
思った通りララナは湖の周りを歩き回っていた。「どこ、どこ」と呟きながら。
その横に立ち、イットフィールドは黙ってララナを見つめていた。
こいつさえいなければ、ネレシーと結婚できる。昼間、具合の悪い妻を気遣う優しい夫、を演じなくてすむ。
「ない……ない……」
相変わらず、ララナはうつむきがちに地面を見回していた。カンテラの炎に照らし出されている顔は、幽鬼のように不気味なものがあった。
イットフィールドも、いくどか彼女に何を探しているのか聞いたことがある。だが、「ない」を繰り返すだけで答えてくれなかった。チェフェリーのように、もっと細かく妻の様子を見ていれば予想がついたかも知れないが。
でも、探しているのがなんであれ、もう、どうでもいい。
「ほら、探している物はここにあるよ」
イットフィールドは震える指で水面を指す。
「本当? 見えないわ」
ララナは足を止め、うつむくように水面を見つめた。
「ほら、そこだよ。奥の方。見えないかい?」
できるかぎり、震えをおさえてできる限り明るい声をかけた。
「分からない。見えないわ」
ララナは靴が濡れるのもかまわず、しゃがみこんだ。水がその膝を濡らす。
イットフィールドは、思い切りララナの頭を押さえつける。前のめりになったララナは、手をバタつかせてバランスを取り戻そうとした。が、結局は顔面を水に沈めた。
大きな水音が闇の中に響き始める。
岸部に落ちたカンテラから、油と炎が岸に広がった。その火が、意外なほど明るく辺りを照らし出した。
手に力を込めながら、まるで自分も沈められているようにイットフィールドは荒く息をした。
そして、泡の立つ音が完全に途切れた。
イットフィールドは、頬についた水を手の甲でぬぐう。限界まで力を入れ、凍えた手は感覚がない。
「はあ、はあ……」
背中を向けて倒れたまま、ララナは動かない。水面が彼女を洗う音と、遠くで鳥が羽ばたく音。
(これで、面倒くさい奴はいなくなった……)
岸部で燃えていた火は、油を使い切り消えかけていた。
もとからララナの調子が悪かったことは知られていた事だ。
だから彼女の死も、事故と処理された。
(我ながらうまいことやりとげた物だ)
イットフィールドはほくそ笑みながらざぶざぶと湖の中に入っていった。
水の冷たさにもなれ、さらに深く潜って行く。
水は澄んでいて、底まで見渡せた。
逃げていく魚。木彫の蛇のように枝を伸ばす流木。岩にまばらにつく水ゴケ。そし砂利と上に転がる丸い小石。
水底で何かが光った。ガラス片か、小石だろうか?
違う。目だ。
人の目が、こちらを見つめている。光ったのは、その眼球だった。
まるで人形の頭が転がっているように、横たわるララナの顔半分が砂利からのぞいている。長い髪は海藻のように水の流れに揺れ、遊んでいた。小魚がまるで頬にキスしようとするように近づき、ララナのまばたきに驚いて逃げていく。
(まさか、そんなことがあるはずはない! あいつの死体はもう埋葬されているはずだ!)
血が通っているとは思えない蒼い唇が開く。
イットフィールドの口からあふれた息が、泡になって水の中を昇っていった。肺の中に、水がなだれ込んでくる。
浮かび上がろうともがいたとき、足首に水よりも冷たい何かが巻き付いた。
使用人部屋で、ブルグは チェフェリーに訪ねた。
「それで、ララナは何かを探していたんだ?」
「さあ、何度訪ねても、『ない、ない』とおっしゃるだけでした。でも、何かは見当がつきます」
ベッドから立ち上がり、チェフェリーはクローゼットの戸を開けた。そこにしまわれていた、きれいな鳥と花の彫刻がほどこされた木の箱を開ける。
「おそらく、これの片方かと」
取り出したのは肘まである茶色の皮手袋が一枚のみ。それには見覚えがあった。
父が亡くなる前にララナに贈った物だ。ララナに取って、最期に贈られた父の形見。
「おそらく、湖の辺りでなくしたのでしょう。奥様はそれを探していたのかと」
水中を漂っているだけの片方の手袋が、虎バサミのようにイットフィールドの足首をつかんでいた。手袋に包まれていても分かる。内(なか)には、しなやかなララナの手が入っている。
振りほどこうと足を蹴ってみるが、肌との間にわずかな隙間すらできない。
(あ、ああ……)
にじんだ視界は、半分砂利に埋まったララナの顔がニィッと笑みを浮かべたのを捕えた。
もし、今イットフィールドの顔を見たら、殴ってしまうかもしれない。すぐにも彼を探しに行きたい気持ちを押さえ、ブルグはイットフィールドの帰りを待つことにしていた。
チェフェリーから、幸せそうだった時の妹の話を聞いて心を慰めていたとき、扉を激しく叩く音がした。「誰か、誰か!」と女性の叫び声も聞こえてくる。
「おや、お客様。少し失礼します」
歳に似合わぬ素早さで、チェフェリーは廊下へむかった。
本来なら、客の立場なら大人しく待っているべきだろう。だが、客の様子はただ事ではない。チェフェリーの後を追って、玄関に向かう。
老婆の手が玄関の鍵を開けた途端、派手なメイクをした女性が飛び込んできた。
「イットフィールド様が、死んでしまう!」
「ああ、ネレシー様。どうしたんですか。おや……」
いきなり女性にすがりつかれて、倒れそうになるチェフェリーの背中を支える。
「大丈夫、落ち着いて。なにがあったんだ?」
「イットフィールド様が湖で溺れて……」
ブルグは湖がある方向をみすえた。
それからしばらくして、イットフィールドの死体は警察に引き上げられた。明るい日差しの中、岸辺にうつ伏せに横たわる死体は、妙に現実味が無かった。
その足元でうずくまり、ネレシーは泣きじゃくっている。
チェフェリーは両手で口を押さえ、立ち尽くしていた。
「おそらくこむら返りか何かでパニックになったのでしょう」
二人組の警官の、背の高い方が言った。
ブルグは無言でイットフィールドの死体を見つめていた。
ぐっしょりと濡れた服は、ズボンの裾がめくりあがっている。そこには手の跡がくっきりとついていた。
「それで、暴れている間に、手袋が足首にからまったのでしょう」
(そんなわけはない。手袋が巻き付いていても浮かび上がれるはずだ)
遺体の傍らに、まるで何かの生き物のように丸まった手袋が落ちていた。
警官は、イットフィールドの肩に手をかけ、体をひっくりかえした。
その死に顔を、ブルグは一生忘れないだろう。
灰色じみて見えるほど蒼い顔色。恐怖に見開いた目、開いたままこわばって固まった口。
「奥様がやったんですわ」
チェフェリーが涙ににじんだ声で言う。
「奥様の嘆きが深いから、こんなことに……」
その言葉に、応える者は誰もいなかった。
結局、イットフィールドの死は事故としてかたずけられたようだった。
それから、ブルグはそろった手袋を自分の家に持ち帰った。妹が大切にしていた者を処分するのは忍びなかったからだ。
手袋は、きれいな紙に包み、愛用の机の引き出しにしまい込むことにした。時々取り出しては、妹の事を思い出すための縁(よすが)とするはずだった。
けれど、しばらくして、ブルグはよく探し物をするはめになった。
時々、その手袋は机の中から無くなるのだ。引き出しに鍵もかけているし、取り出した覚えもないのに。
そして、大抵は妹が気に入っていた、居間のイスの上で見つかるのだ。
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