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「こんなところにいやがったか。入りの時間はとうに過ぎてるンだぞ!」
うわ。出た。
熟練の金剛らしいけど、俺付きになったこの金剛は顔も声も権藤さんにそっくりで、名前まで「権さん」
姿を見るだけで身がすくみそうだ。
「あの、入りって?」
「見世に入る時間だ。聞いてないのか? なんだ、おめェ布団係をやったのか? 飯はどうした。食ったのか?」
矢継ぎ早に質問される上に顔が近づいてくるから、ついあとずさってしまう。
「話が見えないど、なずなに言われたことをやってるだけだよ」
おずおずと言うと、権さんは深くため息をついた。
「あいつ、イビんなって念押ししといたのに」
「イビ……られてんの? 俺。なずなになにもしてないのに?」
「ハッ、お前鈍だな。身元もわからねぇ、下積みもねぇ。そんなおめェが大華になるって見栄を切るだけでも目の仇にされるのに、最初から花の名前をもらって、しかもお前を華屋に斡旋したのは保科様って聞くじゃねぇか。やっかみ妬み嫉みを一身に浴びたって仕方ねぇよ」
「あー、ちょっと待って。花の名前とか、あとそのホシナサマ? 良くわかんないんだけど」
権さんはまた、ため息をついた。
「時間がねぇから今日は朝飯抜きな。ほら、見世に向かいながら話すぞ。ああ、その前に化粧だな」
手首を引かれ、権さんの部屋に連れられる。権さんは棚を開け、細工された竹の箱を出してきた。
「わ……すご……」
中には現代で言うメイク道具がびっしりと入っている。
「ほら、こっち向け。お前は髪がざんばらだからなあ……椿油で固めるか。まあ、まずは顔だな」
間近で見るとますます権藤さんにそっくりだけど、真剣な顔を見ていたらいつの間にか恐怖感は消えていた。
「ほんとに上玉だなァ。ここまで肌理細かいのは数人しか見たことがねぇ。毛穴もねぇし、粉は要らねぇな。紅だけで十分だ。いや、隈取りはしとくか」
権さんはブツブツとつぶやきながら手を動かす。
紅を差してもらったあと、間を置かずに口を開いた。
「ねぇ、さっきの話だけど」
「ああ。花の名、な。ここでは階級によって名が変わってくんだよ。最初が草、次が手に入りやすい花、最後が高値の花の名を頂戴するか、自分で選んだ名前をつける。おめェは最初から『百合』をもらった。百合はこの界隈じゃ最高級に属する花なんだよ」
「そうなの? なんでそんなの」
「女将が決めたんだから、なんで、とかねぇんだよ。まぁ、期待されてんだろ。なにより保科様が直々にこの華屋におめェを託したんだから·····保科様ってのはこの花街一帯を代々仕切ってる家の、まあ地主様みたいなモンだな。そこの若旦那が土左衛門のお前を見初めたも同然だ、ってここいらでも騒ぎになってんだ」
言いながら、権さんは目元の化粧に移っていく。
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