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なかなか寝つけないのは想定内のことではあったが、蚊取り用の線香がすっかり燃え尽きると、翠香はたまらず起き上がった。持参した行李に手を入れて探ると愛用の木刀に指が触れた。どうやら没収されずに済んだようだ。
隣室で眠る女官の金蓮を起こさぬよう、そっと引き戸を開ける。夏の虫の声に紛れ、金蓮の寝息が聞こえた。よく眠っている。彼女は前皇帝の時代から十年ほど後宮で働いていて、翠香の父が七曜城にいた頃のことも知っているという。
足音を忍ばせて庭へ出ると、月や星は分厚い雲に覆われ、あたりは真っ暗だった。小鳥の鳴き声がしたと思ったら、軒下にツバメの巣があった。卵を温めているのか、鋭い声で威嚇される。
「ごめん、何もしないから」
翠香は親鳥に詫び、池のほとりへ移動して木刀を構え、無心で素振りを繰り返した。やがてひとしずくの汗が額から流れ落ちた時、がさりと庭木が揺れる音が聞こえた。鼠や兎にしては大きな音だ。目を凝らすと、竹垣の向こうに背の高い痩せた男の影が見えた。
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