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 最後のページまで読み終えてから、パタリと本を閉じた。  ランプの明かりでぼんやりと照らされた部屋には主の寝息の音だけが響いていた。  本当はもっと前から寝入ってしまったことに気がついていたが、話の内容が気になってつい最後まで読んでしまった。  きっと明日感想を聞かされるだろうから、今夜は考えながら眠ろうと思うと、楽しくなってきて私は本を胸に抱きながら静かに微笑んだ。 「お休みなさい。オステオ様」  私は気持ち良さそうに寝息を立てているオステオに近寄って、胸元の布団を直してからそっと部屋を出た。  小さなランプを持って廊下を歩いていると、廊下の奥からバーベナがこちらに向かって歩いてきた。 「ご苦労様です。クリスティーナ、旦那様はお休みになられましたか?」 「ええ、今日はお散歩の時間が長かったのでお疲れだったみたいです。すぐにお眠りに……」 「分かりました。あなたも早く休みなさい」 「はい。お休みなさい」  バーベナはこの家のことを全部取り仕切っている。夜深くなっても、まだやることが多いのだろう。手伝いを申し出てもいつも断られてしまうので、言われた通り早めに布団に入らせてもらっている。  部屋に戻った私はベッドに腰かけて一息ついた。  後ろで結んでいたアッシュグレーの髪をほどいて、櫛でとかしていると一日の終わりを感じて眠気が増してくる。チラリと見た鏡には、とろんとした青い瞳が映っていた。明日は町へ買い物に行くので早く寝ようと寝間着に着替えるために立ち上がった。  着替えている間、足元に冷気を感じて寒い季節の訪れを感じた。ここに来て冬はもう何度目になるだろう。  クローゼットから厚手の靴下を取り出してきて枕元に置いた。朝はもっと冷えるからこれを履かなければ寒くて体が動かないだろうと思った。  私、クリスティーナ・クロボーサが、この家に来てから五年目の冬を迎えようとしていた。 「全部で五百ルピーだよ」 「ではこれで。ちょうどあると思いますので……」  確かに、という店主の声を聞いてから良い週末をと言って私は店を出た。  途端に冷たい風が吹き抜けてきて、ぶるりと震えながらコートの前を合わせた。  買い忘れたものがないか、店先で籠の中を確認していたら、すれ違った女性達から鋭い視線を向けられたことを肌で感じた。 「見て、あの方……。サフィニア家のご隠居様の…………」 「ああ……。あの歳でよく…………。若さを利用して……財産を食い潰しているって……。大人しそうな…………怖いわ……」  ヒソヒソと喋る声が所々聞こえてきた。  すぐに振り返って否定したい衝動にかられたが、その思いをぐっと飲み込んでこらえた。  自分が好奇や冷たい目で見られることなど、もう慣れてしまった。町へ出れば当たり前のように噂話の標的にされる。  自分のことはなんと言われてもいいが。オステオのことを悪く言われるのは胸が痛んだ。  それに、彼女達の言葉は全てが間違っているわけではない。事情があったとはいえ、オステオの財産を奪ってしまったのは本当のことだ。  私は下を向きながらその場を離れた。帰りの馬車に乗ってから、買い忘れたものがあることに気がついた。平気だと思っていたが、やはり動揺していたらしい。  目を閉じて冷静になるように努めた。こんな日は窓から入ってくる冷気がちょうどいいと感じた。 「クリスティーナ、これが今日の分です」  屋敷に戻ると玄関でバーベナが手紙を渡してきたので、分かりましたと言って受け取った。 「ロランさんは柵の修理ですか?」 「ええ、朝からずっと。ネズミにやられたみたいで、朝から作り直しているわ。何か用かしら?」 「いえ、頼まれていた塩を買ってきたので、キッチンに置いておきます」  よろしく頼むわといってバーベナは廊下を歩いて行った。  バーベナとロランは夫婦だ。二人とも六十は超えているらしいが、住み込みで朝から晩までよく働いている。  屋敷の主人であるオステオに若い頃から仕えていた。オステオが隠居して住まいを王都から少し離れたこの町に移しても二人は付いてきた。  今の屋敷の使用人はバーベナとロラン、そして私の三人だ。  この人数では広すぎる屋敷だが、貴族の別荘が建ち並ぶこの辺りでは少し狭いくらいの大きさだった。  主の部屋の木の扉は、長い年月を感じる色味と艶がある。私はいつもこの扉をノックする時に、オステオが今何をしているか想像する。庭を眺めているか、椅子に座って寝ているか、どちらにしても私がこの扉の前に立つと気がついて、背筋を伸ばして待っていてくれる。  今年七十五歳を迎えたが、オステオは年老いても立派な紳士だった。  扉を軽くノックして失礼しますと声をかけると、どうぞと優しい声が返ってきた。  その言葉を聞いてゆっくり扉を開くと、椅子に座りながらピンと姿勢を正して座っているオステオの姿が見えた。 「オステオ様、ご気分はいかがですか?今朝は少し咳が出たと聞きました」 「ああ、大丈夫だ。何も心配はない」  オステオは目を細めて微笑んだ。目の回りのシワが彼の歴史を物語っている。初めて見たときは気難しそうで怖く感じた印象も、今は欠片も残っていない。  優しくて心が温まる笑顔だった。 「先ほどお手紙が届きました。アレックス様からです」  この名前が出るとオステオは顔を曇らせた。しかしその曇りの向こうに小さな輝きがあることを知っている。それに気づかないふりをして、私はいつものように手紙の封を切った。 「…………にあるものは近々処分するので、必要なものがあれば早めに連絡するように。…………あなたの噂がこちらにも届いております。どれほど迷惑をかけたら満足されるのでしょうか。隠居の身であるなら、どうか大人しく静かに暮らしてください。…………以上です」 「…………そうか。分かったと返事を書いておくれ」 「かしこまりました」  今回の手紙も短く事務的で、離れて暮らす実の息子からの便りにしては、味気なく寂しいものだった。そして、必ず最後は一言刺さるような言葉で締めくくる。これに関しては私も胸が痛くなった。  オステオは何か諦めたような顔で庭の花を見つめていた。曇り空から見えた輝きはすでに消えてしまった。 「…………顔を見に来ていただけるのが一番ですが、ちゃんと忘れず連絡をくれるアレックス様は優しい方のように思えます。言葉はちょっと冷たいですが」 「…………さすがだね、クリスティーナ。文面から人柄が分かるのか……。そうだな、あれは本当は優しい子なんだ。どんなに後悔しても……もう遅いのに……」 「オステオ様……。大丈夫です。いつかきっと、分かり合える日が来ます。本当の親子なのですから……」  オステオは穏やかに笑った。そこには陽だまりのような温かさがあって、私の心もじんわりと温まっていった。  その温かさにずっと浸っていたかった。  風は体を刺すような冷たさに変わり、本格的な冬の到来を表していた。地面を舐めるように進んで舞い上がり、私の黒いドレスの裾を広げた後、空に散らばっていた。  一面緑の芝生が広がり、豊かな平原が見渡せるこの場所はオステオのお気に入りだった。眺めがいい墓に入ることが今の願いだなんて冗談のように笑っていた顔を思い出して、込み上げてくるものを感じて私は顔を下に向けた。  静かに目をつぶっていたからか、後ろでヒソヒソとする声が聞こえてきてしまった。 「どうされるのかしら。没落貴族の令嬢でも、お年寄りの貴族の愛人だったなんて……、いくら若くて綺麗でも、もう誰にも相手にされないでしょう」 「やぁね、もうたくさん貰っているのよ。王都に出て遊んで暮らせるわよ。早くそうしたくてたまらなかったんじゃない。きっと内心喜んで…………」  故人の前で遠慮のない話をされて、傷ついた心に塩を塗られた気分だった。つい振り返って睨み付けると、気分が悪いわと言って二人のご婦人はそそくさとこの場を離れていった。  参列に来ていた人に大人げないことをしてしまった。オステオがいたら、言いたいことは言わせておけ、怒りは何も生まないと言われるかもしれない。  でも、もうそんな日は二度と来ない。  オステオは五日前、ベッドで眠るように亡くなってしまった。  朝、様子を見に行ったバーベナが発見した。  もともと心臓が悪く、このところ少し動いただけで疲れてしまうことが多かった。  駆けつけてくれた医師からは、最後は苦しまなかっただろうと言われた。それは一人で逝かせてしまったことの少しだけ救いになった。  しかし、孤独な人だったオステオに、最後を寄り添ってあげられなかったことは私の心に重くのし掛かっていた。  白い墓石には花輪が乗せられていた。小さな花は切なく風に揺れていて、その光景がいっそう寂しさを誘った。 「どんな嵐にも私の心は奪われない。私の心は私のもの」 「ドルトムントの嵐。あいつのお気に入りか。俺が一番嫌いな本だ」  いつかは来るだろうと思っていたが、背中にかけられた声は思っていたよりも低く艶のある声だった。 「…………今頃、()()()に来られたのですね」 「あの男の愛人に、とやかく言われる筋合いはない。手続きで必要なことがあったから寄ったまでだ」 「そうですか。それではせめてもっと近寄って、あの方に顔を見せてあげてください。ここはそういう場所です」  余計なことを言うなと言われるかと思ったが、オステオの一人息子であるアレックスは、静かに歩みを進めて私の隣に立った。  想像していた通り背が高い人だった。ダークブロンドの髪を後ろに流して、芝生よりも青い、緑の瞳が涼しげな目元に光っていた。  高い鼻から口許へのラインが美しい彫刻のようだと思った。その横顔はオステオに少し似ていて、胸がトクンと鳴った。 「死んだ人間は顔なんて見れない」  風に消えてしまうような小さな声で、アレックスはボソリとこぼした。 「そう思うなら、生きているうちに、見せるべきでしたね」  やっと顔を見せたこの男に、少しだけ嫌みを言ってみたかった。最後くらい許されるだろう。  私の言葉で空気が重いものに変わった。彼もまた、気分を害したのだろうと思った。 「……これからどうするつもりだ?まだ、あの家に居すわるつもりか?」 「すぐに出ていきます」  バーベナとロランは昨日まで付いていてくれたが、悪いことは重なるもので、ロランの弟に不幸があって二人とも葬儀には立ち会うことができずに先に町を出ていた。  あの家で暮らしていた人たちは幻のように、みんないなくなってしまった。  ならば私も早く消えなくてはいけない。 「行くあてはあるのか?」 「……………………」  頼れる相手は兄だけだが、今どこにいるかも分からない。まずは、王都に行って探さないといけないだろう。  すぐに出ていくとは言ったが、現実的には少し時間が欲しかった。 「次の目処がつくまでは置いてやってもいい。愛人としてずいぶんと世話になったらしいからな」 「私達はそんな関係では…………」 「今さら白々しい嘘をつく必要はない。大金をもらったくせに。うちの財産だからな。それも請求するからそのつもりでいろ」 「………………」  何を言っても無駄だと思った。アレックスにとって私は家族の恥のように見えるのだろう。納得するように説明するには今はまだ無理だと諦めて、分かりましたと頷いた。 「あの男は一人で逝ったのか」 「……ええ」 「そうか。それを聞きたかった」  死者に送る言葉にしては悲しすぎる台詞で、二人の深い溝が見えたようで悲しかった。  どんな顔をしているのかとアレックスの顔を覗いてみたが、目を伏せていて表情は読めなかった。  ただ冷たい風がアレックスの前髪を静かに揺らしていた。  □□  ついこの前まで四人で暮らしていた屋敷では、アレックスが連れてきた使用人が忙しそうに働いていた。  少ない人数だが、突然知らない家になってしまったようで、何とも言えない気持ちになった。  私の部屋は手をつけられていなかったので、そこだけほっと胸を撫で下ろした。 「クリスティーナ、君はいくつになったんだ?」  ベッドに崩れるように落ちてから見慣れた天井をぼんやりと見つめて、馬車の中でのアレックスとの会話を思い出していた。 「先月、二十三歳になりました」 「なるほど、ここに来たときは十八か……。ずいぶんと若い女に手を出したものだ……」 「…………アレックス様、あの……」 「二人の話など聞きたくもない。兄は王都にいるのだったな」 「……ええ。便りがないので、居場所も分かりませんが……」 「クロボーサ子爵だな……。すぐに調べさせる。居場所が分かればすぐに引き取ってもらえるからな」 「それは……ご丁寧に……。ありがとうございます」  それきりアレックスは黙って腕を組んだまま目をつぶってしまった。  楽しく会話をしようとなど思っていなかったが、気まずい時間だった。  しかも屋敷に着いてからすぐ帰ると思っていたのに、アレックスはしばらく滞在すると言い出したのだ。もちろんもう彼の家なので、文句は言えないのだが、短期間でも一緒に暮らすことになるなど考えていなかった。  今までと同じように自分のことは自分でやるつもりなので、なるべく顔を合わさないようにしようと思った。向こうは見たくないだろうし、それがお互いのためだと思ったのだ。  ふと目が止まって机の上に乗っていた本を手に取った。帰郷というタイトルの本で、もう何度もオステオに読んで欲しいと言われた本だった。  栞が挟んであるページは、前回ここまでと言って止まった場所だ。私は思わずページをめくり、ついそのまま読み進めてしまい、気がついたら声にまで出して読んでいた。  日中も呼び出されれば読んでいたし、毎晩オステオのベッドの横で本を読んでいた。  クリスティーナの声が好きだ。安心する、温かいものに包まれているような気分になる。オステオはそう言ってくれた。  ページが濡れていることに気がついたが、それは自分の涙だった。  ぽたりぽたりとページを濡らしていくが、声を止めることはできなかった。嗚咽を堪えた震える声で読み上げ続けた。  今日だけは、せめて今日だけは空へ帰ったオステオに届くように。  私は朗読を続けたのだった。  私の十八歳は怒濤のように色々なことが押し寄せて、辛く苦しい日々だった。  私の父は子爵位を持つ貴族で、母が私がまだ小さい頃に流行り病で亡くなってから、独り身のまま兄と私を育ててくれた。  長い歴史を持つクロノス王国で、父は国の輸出入を管理する仕事に就いていた。  私が十八を迎えてすぐの頃、突然父が兵士に捕まって連行された。  隣国から長年輸入品の横流しを行い多額の利益を得て、王国の査察官に金銭を配り黙認させようとしたという疑いをかけられたのだ。  父は認めなかったが、数々の証拠が出てきてしまった。  それでも父は無実を訴えたが、証拠が揃ってしまったので覆すことはできず、裁判でも無実は認められなかった。  有罪となった父はそのまま投獄されることになった。  領地は没収され、名ばかりになった爵位は兄が受け継ぐことになった。しかも、父がサインしたとされる多額の借金が発覚し、財産の全てを使って支払ってもまだ借金は消えなかった。  結局屋敷も売ることになり兄は友人のつてを頼り、金は送るからと言って王都に働きに出ていってしまった。  治安の悪い地域のボロ屋に住み、毎日着るものにも食べるものにも困るように落ちぶれてしまった私に手を差しのべてくれたのがオステオだった。  当時、私は教会で子供達に向けて、本の朗読をしていた。基本的には無償の仕事だったが、私の境遇を不憫に思った教会長がわずかな給金をくれたので、それを生活費と借金の返済にあてていた。  私の朗読をどこかで聞いていたオステオは、目が衰えてしまった自分の代わりに、自分の家に来て本を読んで欲しいと依頼してきたのだ。  最初は隠居した気難しい老人のように思えたのだが、話していくうちに優しくて穏やかな人だということに気がついた。  当時は没落貴族の令嬢目当てに、怪しげな誘いが後を絶たなかった。住み込みで破格の給金を提示してくれたオステオの依頼に私は飛び付いたのだった。  そして、毎日顔を合わせて会話をして、交流が深まるとオステオは私の家の借金を代わりに返済すると言い出したのだ。  そこまでしてもらうわけにいかないと、何度も断り続けたが、オステオは私が出掛けている間に、借用書を見つけてバーベナに頼んでお金を用立ててすっかり完済してしまったのだ。  困惑の顔で部屋に入ってきた私を見てオステオはゆっくりと口を開いた。  家督を譲ったときに、自分の財産のほとんどは息子に渡してしまったこと。それでもわずかだが余生にと用意していた財産があった。  ここでの暮らしはそれほどお金もかからないし、自分はもう長くはないだろうから、死ぬ前に未来ある人のためにお金を使いたかったということだった。  毎月の利子に苦しんでいた私にとって、心は苦しくて申し訳ない気持ちもあったが、正直なところとてもありがたいものだった。  オステオの出してきた条件はひとつ、少しでも長く自分の側で朗読を続けて欲しいということだった。  私はオステオが最後を迎える日まで、寄り添って好きな本を読んであげようと心に誓ったのだった。  最後のページまで読み終えて、本は私の手の中からぽろりと落ちて床に転がった。  もう限界だった。  枕に顔をうずめて声を押し殺すようにして泣いた。  クリスティーナ、私が死んでも涙は流さないでくれ。君の涙は美しいから、枕を濡らすなんてもったいない。  いつだったか、オステオがそう言ってくれたことを思い出した。 「ごめんなさい……オステオ様。約束……守れなかった。今日で……最後にしますから……」  一緒に暮らした日々は、私の人生の中でとても安らかで温かい時間だった。二度と戻れない日々を思いながら、私は夜を越えても泣き続けたのだった。  部屋の中からか細い泣き声が聞こえてきて、ノックをしようと思っていた手を止めた。  喪失の悲しみに泣く女を慰めるような関係ではない。  ただもっと簡単な繋がりだと思っていたので、泣くほど悲しんでいるというのは驚きだった。  同情を引くための演出かと思えたが、誰が来るとも思えない状態でわざわざ泣き続けるのはおかしな話だった。  やはり、あんな関係でもそれなりに絆ができていたのかもしれない。  どちらにしても、自分には関係のないことだと、静かに手を下ろして女の部屋の前を後にした。  あの男が早々に隠居して、俺がサフィニア伯爵となったのは八年前。  俺が二十五の時だった。  幼い頃はあの男が人生の目標だった。あの男の背中を見て、尊敬して自分も大きくなったらあの男のようになるんだと信じていた。  仕事人間で寡黙だったこともあり、ほとんど話すこともなかったが、淡い憧れを抱いていた。  しかし、大きくなるにつれて両親が不仲であるということが分かってきた。  顔を合わせれば喧嘩ばかり、あの男の帰りは毎日遅くなり、仕事だと言って帰らない日も多くなった。  ある日、朝から怒鳴り合う声で俺は目覚めた。玄関先で母は泣きながら叫んでいた。早くあの女の元へ行けばいいと。  あの男は冷たい目をしながら、泣き崩れる母を見下ろしていた。  その頃俺は二人の様子から、どういう事情なのかもう分かる年齢になっていた。  思い出すのはいつも窓の外を見て、あの男の帰りを待ってる母の後ろ姿。  寂しそうで悲しそうで、母にそんな思いをさせるあの男のことを、俺はだんだん憎むようになっていた。  そして、あの日……。  俺はあの男に決別を誓った。  思い出しても胸をついてくる不快感に、俺の怒りはまだ消えていないことを感じた。  それでも、あの白い墓石を見たときの感覚は何とも言えない苦味があって、責められているように感じた。  何も知らないくせに、言いたいことを言ってきたあの女も…………。  腹が立っていたはずなのに、一人で墓の前に立って肩を震わせていたあの女のことが頭に残っていた。  なぜ部屋を訪ねようとしたのか、自分でも分からない。  あの男の話を聞こうとしたのか、嫌みでも言ってやろうと思ったのか……それとも。  コンコンと部屋をノックする音が響いて、俺はハッとして顔を上げた。  使用人のネイトの声がして、入室するように声をかけた。 「旦那様、バーベナとロランと連絡が取れました。向こうも大変らしく、一度挨拶をして話をしたいけど戻るまで時間がかかるそうです」 「そうか、こちらは大丈夫だと伝えてくれ。色々と分かりやすいように、整理してくれていたからな。あの二人は長く仕えてくれた。当面の生活に困らないようにしてやってくれ」 「はい。……それと、あの…クリスティーナさんを…くれぐれもよろしくと…優しくしてあげて欲しいと」  あの男が家を出る前までは、バーベナとロランは屋敷の使用人として一緒に暮らしていた。二人とも物静かな夫婦で、主人のことに関して口を出すことなどなかったはずだ。やけに引っ掛かる言い方が気になった。 「それは同意しかねるな……。なぜあの男の愛人の面倒まで丁寧に俺がみないといけないのか……。まぁ家に置いてやっているんだ。これくらいで十分だろう」  ネイトもまた何か言いたげな顔をしていたが、もう下がっていいというと分かりましたと言って部屋を出ていった。  クリスティーナ・クロボーサ。  初めて女のことを聞いたとき、俺は耳を疑った。  知っている人物だったわけではない。風の噂で、あの男が屋敷に招き入れたまだ若い女だと聞いたからだ。  俺は遅くにできた子だったから、俺が成人したころにはあいつはもう年老いていて、あの影響もあったからか、現役時代とは変わり果てて、すっかり見る影もなくなっていた。  そんな老いた男が、若い女を囲ったと聞いて、驚きと共に信じられなかった。  出入りしていた工事業者の者をつかまえて様子を聞くと、やはり若い女が一人一緒に暮らし始めて、主人が呼ぶと一人で部屋に入っていくそうだ。  年老いたとはいえ、なんの縁もない若い令嬢が男と二人きり、一度入るとしばらく出てこなかったそうだ。  その間、屋敷の使用人夫婦は邪魔をしないようにと言って部屋に近づかないし、これはもう、明らかにそういう雰囲気だったと証言した。  そして決定的だったのは、老後のために用意していた財産のほとんどを、小さな土地も含めて処分してしまい、それを女のために使ってしまったという話が入ってきたのだ。調べてみるとそれは本当だった。財産を管理していた者は用途については本人の意向で話せないと言われたが、男が若い女に使う金などどうせ装飾品や遊ぶ金だろうということが想像できた。  お互い独身であるしそういった面では問題がないが、やはり落ちぶれたといえ貴族の若い令嬢を囲うことは、噂好きな連中には格好のエサで、離れていても様々な話が嫌でも耳に入ってくるのだ。  クリスティーナのことを調べてみれば、父親の不正が発覚して投獄され、兄とともに屋敷を追い出されたということが分かった。苦労していそうな様子は見えたが、彼女についてはまだ悪い噂があった。  クリスティーナには婚約者がいたのだ。  レイヴン伯爵家の嫡男であるカーティスという男で、華やかな容姿で社交界で令嬢たちから人気があり、名前は聞いたことがあった。  父親に問題があったとしても、かなりの資産家で裕福な貴族であるレイヴン家なら、クリスティーナの力になることも考えられたが、あっけなく婚約は破棄された。  父親が不正を働いたのは、金遣いが荒く、家の財産を食い潰したクリスティーナのせいだという話が出てきたのだ。おまけに男遊びが激しく、カーティスをさんざん困らせて何度も許したのにやめることが出来なかったので、ついに見捨てられたという話だった。それが今度はサフィニア家の隠居に乗り換えたという話になって何年もの間、俺の頭を悩ませる種になった。  そして、いなくなってもまだ、あの男は俺の頭を悩ませる。あの男が残していったものを処分するためにこの家に残ったが、一番面倒なものの扱いに困り果てていた。 「……優しくか。まったくよけいなものを置いて逝ってくれたな」  強い酒が飲みたくなって部屋を出た。もう夜も深い時間になるので、自分で適当にやることにする。  女の部屋の前は通りたくなくて避けるように歩いた。  みんなが好き勝手なことを言って様々な話が飛び交って、何が本当なのか何が起きていたのか、考えるだけで頭が痛くなってきてとても素面では眠れそうになかった。  廊下の奥に見える女の部屋からはまだ明かりが漏れていた。  すすり泣く声が聞こえてくるような気がして頭を振った。  俺は光に背を向けて、夜の暗い廊下を歩いて行ったのだった。  □□□
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