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③
眩しい光を浴びて深い眠りから浮上していくと、誰かに髪の毛を撫でられているような感覚があった。
伸ばしっぱなしの長い部分をくるくると指に巻き付けて遊ばれているような気がして、うっすら目を開けると、嬉しそうに微笑んでいるカーティスと目が合った。
「おはよう、サム」
「……お……はようございます」
「ひどい声だ……。昨夜は無理をさせちゃったかな」
夢の続きみたいにぼんやりと浮かんでいたが、その言葉で急に現実に引き戻されて、昨日の自分の痴態を思い出してさすがに恥ずかしくなって顔が熱くなった。
「かっ……カーティス様はお気分は大丈夫ですか?あんなに……その……動いて体調は……?」
「ああ、俺の方はとても良いよ。気持ちの問題でもあるから、誰かと肌を合わせたら楽になるんだ……。特に昨日は……サムが可愛かったから、ごめんね、何回もしちゃって……」
カーティスは寝転んだまま俺を抱きしめてきた。頭をぐしゃぐしゃにされながら顔中にキスをされた。朝から刺激的すぎる行為に思わず反応しそうになっていると、下半身に固くて熱いものが押し付けられた。
「あ…………」
「サムの寝顔が可愛いから、起きるの待っている間にこうなっちゃった。だめ?」
「えっ……あ……あの、は……はい」
「嬉しい……サム」
朝っぱらから頭がよく動かなくて、よく分からない返事をしたら、カーティスは嬉しそうに俺の体に手を這わせてきた。
そんな風に触れられたらもう拒むこともできずに、俺はすぐに熱い息をはいた。
もうこうなったら昨日も今日も同じだということにする。
自分のいい加減な性格に呆れながらも、朝からカーティスと濃厚な時間を過ごしてしまった。
その日はカーティスが自宅での仕事だけだったので助かった。一日使い物にならずに、ルーカスから冷たい視線を浴びながら、なんとかやり過ごした。
しかし、肌が合うというのは恐ろしいもので、一度味わってしまうと、抗えない欲望に悩まされることになってしまう。
「あっ……だっ……だめです……、だれか……きちゃう……」
「大丈夫だよ……人払いはしておいたから……、それより今、きゅっと締まったよ。サムは誰かに見られると興奮するの?」
「し……しな……、や……やだ………」
真っ昼間から庭園で俺は後ろからカーティスに貫かれていた。
どうしてこうなったかと言えば、最近めっきり仕事が減ったカーティスは、庭園でのんびり午後のお茶の時間を楽しんでいた。
俺は横について給仕をしていたが、本を読んでいたカーティスがしばらくして俺の尻に悪戯をし出して、やめろやめろという間に、俺のアソコが反応してしまいこんなことに……。
机に半身を乗せて手をついてカーティスの責めに耐えていたが、激しい揺れに高そうなカップがガチャガチャと音を立てるのでそれが気になってしょうがない。
「ほら……、カップなんか見て。よそ見していると本当に抜いちゃうよ。ここでやめてもいいの?」
「…………だ……め、ゃだ……、抜いちゃ…………」
「だったら俺の舌を舐めて……、いつもみたいに……気持ち良くさせてよ」
「んっ……はっぁ……んんっ」
上からカーティスが近づいてきた。ペロリと出た赤い舌に俺の興奮は高まって、俺も舌を出してそれに絡ませる。
なんて卑猥な光景なんだと思うと視覚のエロさだけでイキそうになる。
俺のキスに満足したのか、カーティスは俺が欲しいものをくれた。何度も……終わりがないくらい……。
初めてした夜から、もう何度もカーティスに抱かれている。たいていは夜に呼ばれることが多いが、真っ昼間でもそういう雰囲気になるとカーティスは手を出してくる。そして俺は拒めない。立場的なものもあると思いたいが、俺も喜んで受け入れているということを認めるしかない。初めて抱かれたときからもうこれはヤバイと思うくらい相性が最高だった。
ずっとご無沙汰だったことが嘘のように、カーティスと毎日のようにヤっている。
だから少し尻を触られたくらいで俺の体は反応してしまう。欲しくて欲しくてたまらなくなる。俺は何をしているのかと何度も頭によぎるが、それを凌駕する快楽に完全に飲み込まれていた。
今日も奥にたくさん出されたが、カーティスは嬉しそうにそれを掻き出して綺麗にしてくれた。
最後まで大切にしてくれるようで、ただの行為の先に何かあるような気がして、俺はそこにしがみつきたくなる。
この思いがなんなのかなど知りたくなかった。
「え?会社を手放したんですか?」
「そうだよ」
ガタガタと馬車に揺られながら、今日も正装してカーティスとパーティーに向かっていた。
急に決まったもので、今日は何のパーティーなのか聞いたら、会社を人手に渡したからお別れパーティーみたいなものだと言われた。
「もうすでに、父の代からのものは少しずつ整理しているんだ。今日のパーティーは最後にどうしても来て欲しいと言われてね。急にバタつかせてごめんね」
確かにあんなに仕事人間だったのに近頃は家で過ごすことが多くなっていた。もう十分に利益を出したからいいということだろうか。なんだか急に心にもやっとしたものが生まれた。
前から浮世離れした妖精のような人だったが、最近はもっとふわっとしていて、どこかに消えてしまいそうに思えるのだ。
「俺は…………別にいいですけど。今日も気をつけてくださいね。無理しないように、気持ち悪くなったらすぐに合図を出してください。飛んでいきますから!」
「……サム、ありがとう」
カーティスは儚げに微笑んで、俺を引き寄せてキスをしてきた。
こんな、切ない思いがこもったようなキスをされたらたまらなくなる。俺の心臓はトクトクと鳴り出した。
それは不安なのか喜びなのか、深く考えることを避けて俺は夢中でキスに応えたのだった。
今夜のパーティーに令嬢の姿は少なかった。お別れパーティーということもあり、会場に着くとカーティスはすぐに大勢に囲まれたが、それは男性が多かったので俺はホッとしていた。
しかし、男の中でも同類のやつはいる。カーティスにさりげなく触れているやつがいて、離れた場所で見守るだけの俺はイライラしながら、水をがぶ飲みしていた。
昨夜カーティスは妹の事を少し話してくれた。昔、女性の婚約者がいたこと。家同士の決まりで幼い頃から交わされていた約束。
だんだん自分の指向に気づき始めて、彼女を愛そうとしたが無理だったこと。
自分が女性を愛することができたなら、今頃別の未来を生きていただろうと。彼女を傷つけてしまったこと悔やんでいると言っていた。
妹も傷ついて苦しんでいたが、女性に触れるだけで苦しくなるようなカーティスもまた、妹を愛したくても愛することができずに苦しんだのだろう。
野心的にパンドレア侯爵に近づいたと思っていたが、最近はもうなにがなんだか完全に迷路に入っていた。
とりあえず今はカーティスの腕に手を絡ませているあの可愛い系のお坊っちゃまにイラつきながら睨み付けていた。
「あれ?エリオット……?」
突然呼ばれた名前に俺は一気に現実に引き戻されて、一瞬で体が凍りついた。
恐る恐るその声の方向を見ると、隣国の寄宿学校時代の悪友、ザックが立っていた。
久々の再会だが、目立つ赤髪と金色の目は間違えることなくそのままで、当時の記憶がよみがえってきた。
自国から同じ隣国の寄宿学校へ行ったのはフレデリックとザックだけだった。
伯爵家の長男であるザックは地方の領地に戻っているはずだったが、まさかこんなパーティーに出席しているとは偶然の再会に驚きで固まってしまった。
ザックはのんきにまたエリオットと呼びそうな口をしていたので、慌てて腕を掴んで廊下まで連れ出した。
「しぃー!しぃー!静かに!」
「なっ……なんだよ。エリオ……」
「だぁ!!ちょっと黙って!色々と事情があるんだ!」
訳が分からないという顔でぽかんとしているザックに、簡単に事情を話してとにかく黙らせた。
「相変わらず、なんと言うか……無鉄砲なやつだなぁ……。俺も手伝おうか?しばらくこっちにいる予定だし」
「……いや、いいよ。お前まで巻き込むのは……。フレデリックが色々助けてくれているから……」
分かった、もし必要だったらすぐに声をかけてくれと言ってザックは俺の肩を叩いた。
昔はよく飲んで大騒ぎした仲だが、お互い歳をとって落ち着いた。久々に三人でバカ話でもしたい気持ちになったが、俺はその時はよろしくと言って心配させないように笑った。
「…………お前さ、ちょっと見ない間に、やけに可愛くなったな?」
急にザックが熱い友情の空気をぶち壊してきたので俺は、はぁ?とデカい声を上げた。
「………ほら、あのこと覚えているだろう……。たまにだけど思い出すんだよ。……お前さ……普段ボケッとして地味で無害な顔のくせに……、あの時すごい色気出すからマジでたまに思い出して抜くんだ」
「ばっ……ちょっと!やめろよ!それ忘れたはずだろう!」
フレデリックもザックも異性愛者だが、学生時代、酔っ払った勢いでザックと一度だけヤっしまったことがある。
仲の良い友人同士だったので、酔いが醒めてからお互いなかったことにしようと話し合ったはずだった。
「お前、恋人いないんだろう?たまってんだったら今夜辺りどうだ?」
冗談とも本気とも取れない誘いで、ザックは俺の尻を触ってきた。
瞬間ゾワっとした寒気が背中をかけ上ってきて、悲鳴が出そうになった。
「ザック……いい加減に……」
「失礼」
やめろよと言おうとしたら、反対側から腕を取られて引っ張られた。
そのまま庇われるような格好になり、目の前にはよく知った白いタキシードの背中が見えた。
「失礼、家の者が何かされましたか?」
「は!?えっ……!?いっ……いえ!その……」
突然目の前にカーティスが現れて、ザックは驚いた後、まずいことは言えないと判断したのだろう、慌てて何もないですと言って目を泳がせていた。
「では、もう帰るのでもうよろしいでしょうか?」
「どうぞ!どうぞ!」
頭を下げながら持っていってくれという態度のザックを見て、カーティスはなにも言わずに俺の背中に手を回して押すようにして歩きだした。
なんてタイミングでどこから見ていたのかカーティスに聞きたかったが、どうも聞けるような雰囲気ではない。カーティスの顔はいつもと変わらなかったが、刺々しい雰囲気があって俺はビビっていた。
見守っているはずが勝手に移動したのがまずかったのだろうか。
無言で馬車に乗り込んだ後も、カーティスは窓の外に目を向けてこちらを見ようともしてくれなかった。
「いやだな……こんな気持ちになるなんて」
無言の車内の中で、カーティスがぽつりと小さな声をこぼした。
カーティスの方を見ると、ひどく悲しそうな顔がそこにあった。
「サム……俺に欲を与えないでくれよ。このまま君を独り占めして、誰も知らない所へ行きたくなってしまう……。そんな夢……俺にもう見る資格もないのに……」
怒っているのかと思っていたが、こんな事を言うなんて、カーティスはまるで傷ついているみたいだった。しかも何か含みのある台詞に俺の胸は不安を覚えてキュッと痛んだ。
「申し訳ございません……。勝手にお側を離れてしまい…………」
「いいんだ……。君の自由を奪うことは俺にはできない。好きなところへ行っていいんだよ。さっきの彼は恋人?そうだ、屋敷についたらサムだけ引き返して彼のもとへ行くといいよ。俺は大丈夫だから……」
目線を外に向けながら冷静な顔をしてカーティスはそんなことを告げてきた。しかし、声は震えていて、ぎゅっと握っている手もまたわずかに震えていた。
そんな姿を見せられたら、俺はたまらなくなった。
「あの人は恋人ではありません。俺はどこにも行きません。あなたの側にいます」
カーティスはやっとこっちを見てくれた。深青の瞳には涙こそ出ていなかったが、濡れていて美しかった。
「……サム、俺に夢を見させて……。もう少しだけ……」
カーティスが近づいてきて、その唇を俺は受け止めた。
生温かく柔らかい感触に頭が支配される。ゆっくりと舌が入ってきて、それを喜んで迎い入れた。
今度こそ言い訳はできない。
立場とかそんなものは関係ない。
俺は一人の人間としてカーティスを欲しいと思った。
儚い幻想みたいなこの人を離したくないと思ってしまった。
こんなに身体中から求めたことはないけれど、この気持ちを知っている。
だが、認めたとしてどうにもならない。
俺も夢を見ればいい。
カーティスの夢に溺れてしまえばいい。
そう、ずっと。ずっとこのまま……。
□□
月明かりに照らされて、黒革は妖しく光って見える。厚みあるそれを、手に入れるのはずいぶんと苦労した。
要職に就く者しか見ることができないが、父の仕事に付いていった時、一度だけ目にしたことがあった。
黒革で表紙に王家の刻印。紙の材質までは分からなかったが、とりあえずの目くらましになればいいのでレプリカを作らせた。
ヤツからその話を聞いたときにすぐ思い付いた。手に入れることができれば追い詰めるための大きな道具になるからだ。
そして、俺の願いはもうすぐ叶うところまで来ている。
それなのに、俺の心に生まれてしまった躊躇いの気持ちが足を掴んでいる。
あいつを潰してやろうと決めたとき、燃え上がった復讐心は消えていない。
むしろ日を追う毎に強くなり、足元から絡み付いて離れなかったはずだ。
いつか自分を覆いつくして、全て終われば食らいつくされるだろうと思っていた。
それでいいと思って魂を売ったはずだった。
けれど、今目の前にいる男のせいでこの世に未練ができてしまった。
規則正しいリズムで寝息が聞こえてきて、それを守りたい気持ちと乱してやりたい気持ちが胸の中に生まれては消えていく。
こんなはずではなかったと俺は小さくため息をついた。
こんな気持ちが生まれてしまうなんて予想もできなかった。
しかし、あの日彼と初めてちゃんと対面した時、本当は見えていた未来かもしれない。
黒に近いグレーの髪は水で濡れてキラキラと輝いていた。
黒く汚れた顔からは水が滴り落ちていた。そこにある美しさはどこか懐かしく思えた。
その時、もしかしたらという気持ちが浮かんできた。
それは話してみて確信に変わった。
彼はきっと俺の元婚約者、クリスティーナの兄、エリオットであると……。
俺には幼い頃から決められた婚約者がいた。子爵家の令嬢、クリスティーナ。向日葵のように可憐で愛らしい人だった。
幼い頃はいつかは彼女と結婚するだろうと信じて疑わなかった。
しかし、思春期を過ぎた頃、どうしても拭えない気持ちが出てきた。
クリスティーナと一緒にいることは楽しい。彼女を守ってあげたいとも思う。それなのに、俺には彼女が欲しいという欲がどうしても湧いてこなかった。
そのくせ目で追ってしまうのは、同世代の男子ばかり。自分はどこかおかしいのかとずっと悩んでいた。
そして、男同士で付き合う人間を見たとき、謎が解けたみたいにすっきりと落ちてきた。自分はそうなのだと気づいてしまったのだ。
この先、こんな思いを抱えたままクリスティーナを幸せにすることなどできない。
俺は母にクリスティーナとの婚約を白紙に戻して欲しいと伝えた。
そして、自分の恋愛対象が男であると伝えたのだ。
もともと、母と父とは親子というにはどこか距離のある関係だった。それが普通なのだと思っていたが俺の告白により、普通の親子ではないと判明することになった。
母は俺を出来損ないだと罵った。なんのために養子にしたのかと。
そこで初めて俺は、レイヴン家の人間ではなかったということを知ったのだ。
母と父には子が出来ず、地方の教会を回って容姿が優れている子を探して、俺を見つけたそうだ。この家にいてもずっと馴染めずに、いつも一人でいるような人生だった。
俺は自分の本当の両親に会いたくて、教会を訪ねた。
俺を捨てた母は、手紙を残していた。もし息子が訪ねてきたら渡してくれと伝えていたそうだ。
その手紙を読んで母の名前と父の名前を知った。子を捨てるくらいだから、何か事情はあるのだろうと思っていたが、二人が愛し合って生まれた子ではなかったと書かれていて俺はショックだった。
それでも、母に会いたくて人を使って探しだが、その時すでに母はこの世にはいなかった。
母は心を病んでずっと病室にいたが、結局そのまま、自ら命を……。
一度でいい、一度でいいから、一目会いたかった。母に名前を呼んでもらい、大きくなったねと言ってもらいたかった。
それだけだったのに…………。
母は俺の名前も知らないまま、この世から消えてしまった。
それを知ったとき、俺は膝から崩れ落ちた。なぜもっと早く探さなかったのかと激しく後悔した。
病院の関係者に話を聞くと、母は自分を汚したあの人が憎いあの人が怖いといつも言っていたそうだ。
それが誰のことだかは分かっていたし、これも当時の関係者を調べて何が起きたかは調査済みだった。
学生時代、母は一学年上にいたパンドレア侯爵に目をつけられた。
当時、婚約者もいて将来を誓い合っていたのに、侯爵の気まぐれなお遊びで母は弄ばれた。
そして妊娠を知ったのだろう。そこからは誰にも告げずに一人行方をくらましてしまう。
一人で俺を産み、教会に預けてまた姿を消した。
一人で消えていった母の、心を病み孤独で辛い人生を思うだけで、腸が煮えくり返るほど激しい怒りが込み上げてきた。
パンドレア侯爵は、何人も妻をめとったが、皮肉なことに男子に恵まれず、女子しか生まれなかった。娘ばかり六人、その三女であるハティーに目をつけた。
平民の男と駆け落ちを繰り返して、侯爵が手を焼いていると聞いたからだ。
彼女に近づき、侯爵家との繋がりが欲しいから取引をしないかという話を持ちかけた。
同じ頃、クリスティーナの父、クロボーサ子爵が不正を働いたとして捕まった。悪事になど絶対に手を染めない真面目な人だったので、これは誰かにハメられたのだと直感で分かった。
そして、当時の子爵の上司であったパンドレア侯爵に、婚約者の父親を心配する名目で近づいた。ちょうどハティーから話を聞いていたのだろう。娘が君となら結婚してもいいと言っていると侯爵は持ちかけてきた。
そこで俺はカードを出すように侯爵の前に並べた。
事業を大きくしたくて、以前からパンドレア家との繋がりを希望していたこと。
ハティーとの結婚で多くは望まない、好きにしてもらっていいこと。支援してもらい事業を拡大して利益が出たら多くを渡すこと。
自分は野心家なので、ただの貴族に留まらず、政治の世界にも進みたいと熱っぽく語った。
侯爵は鋭い蛇のような目で俺を見定めていたが、すぐにクリスティーナとの婚約を破棄するように言っていた。俺の心を試したかったのだろう。
俺は復讐のためにクリスティーナに別れを告げた。本当ならもっと早く解放してあげるべきだった。
クリスティーナといると、幸せな夢を見ることができた。夢ではなく、ただの幻想だったのだが、それが手放せなくて彼女を傷つけるかたちになってしまった。
パンドレア侯爵は自分の言うとおりに動いた俺に感心を持った。もともと混乱させるために、クロボーサ家を借金騒動で追い込んでいたが、勝手にクリスティーナの悪い噂まで作って広めてくれた。
助けてあげることができなかった。俺は目的のために目をつぶった。
全てはあのパンドレア侯爵を陥れて、衆人の前で死の罰を受けさせること。
そのために悪魔に魂を売ったのだ。
予定通りハティーと結婚して、彼女は恋人と暮らし始める。俺はこつこつと金を集めて侯爵に献上した。
金を集めて太らせる、そうすればどんな鋭い獣も動きが鈍くなる。
案の定、俺を信用した侯爵は、俺を国王陛下反対派の派閥に入れた。
狙いは証拠を徹底的に集めること。ただの悪口程度ではどうにもならない。やつらがもっと過激に思想を拗らせて、自分達なら出来ると大それた野心を抱かせる。
俺は地道に甘言を囁き、メンバーをその気にさせていった。ただの悪口だけの派閥だったものを、反逆思想を持つ危険な派閥までに成長させた。
そう、そしていよいよ、実が熟すところまできた。いつ、どんな形で披露するかまで計算に入れている。
そこですべて終わらせるつもりで、周りを整理し始めたところだった。
しかし、ここで計算違いが出てしまった。
エリオットが自分の前に現れたのだ。
エリオットを側に置いたのは、自分が不幸にしてしまったようで謝罪の気持ちもあった。
それに反応が面白くて、つい別の顔も見てみたくかったからだ。
エリオットが名前まで変えて俺に近づいて来たのは驚いたが、どこかで侯爵の話でも聞いたのだろう。あれだけ自慢していたら、どこかから漏れることは考えられる。
俺に近づいて、父の件の真相を探るつもりなのだろうと思った。
エリオットは不器用な男で何をやらせても失敗ばかりで、余計に面倒なことになるのだが、とても一生懸命にやるので憎めない男だ。
見た目もクリスティーナと似ているように思えたが、よく見ると全然違う。瞳の青緑色は見ていて飽きない不思議な色で、笑いかたも照れた顔も、ムッとした顔も、何をしていても可愛く見えてしまい俺の心をくすぐってくる。
気がつくと触れてみたくて手を伸ばすが、引っ込めるという繰り返しで、一緒にいるとどんどん心が惹かれていくのが分かった。
そして、あるパーティーでまたいつもの発作が出てしまった。
最近は令嬢と踊るくらいなら、少し気分が悪くなるくらいですんでいたのに、大胆に体を密着してくる令嬢に目をつけられてしまった。
胸を押し付けられて、息苦しさを感じた。
女性の体を意識すると、母の孤独や悔しい思いを勝手に想像して頭が割れそうに痛くなる。腹の奥から吐き気が込み上げてきて、令嬢を乱暴に突き放しそうになるのを耐えた。
そこに走ってきて令嬢と俺の間に割り込んできたのがエリオットだった。
使用人の出過ぎた行為に令嬢は怒りを表していたが、俺には救いの神のように見えた。
一刻も早くそこを離れたかった俺を、エリオットは迅速に連れ出してくれた。何より、変化を感じ取って動いてくれたのが嬉しかった。
いつもあの状態になった後は無性に誰かを抱きたくなる。もちろん男で、男であれば誰でもいいはずだったが、もうその時はエリオットしか見えなかった。
なんとなく彼の視線には気がついていたので、興味がないわけではないだろうと思っていたが、俺の頼みをエリオットは受け入れてくれた。
その後は飢えを満たすように無我夢中で抱いてしまった。エリオットの体はまるで夢のようだった。柔らかくて溶けるような甘さで俺は一瞬で虜になってしまった。
それからの日々はずっと夢が続いていた。甘くて幸せな夢だ。エリオットといると幸せで満たされた気持ちになる。いつでもどこでもエリオットが欲しくてたまらなかった。
そんな欲の塊みたいになった俺をエリオットは受け入れてくれた。
主従の関係や父親の件など関係なく、エリオットも俺を求めてくれるかもしれないと淡い期待ばかりが膨らんでいた。
しかし、俺を取り巻く状況が変わるわけではない。予定通り、手掛けていた事業を人手に渡して、自分の身辺を整理できた。
後はあの男が決断すれば、俺の未来はこうと決まるところまで来たのだ。
そして、あの黒革の本。あれは当時のクロボーサ子爵、エリオットの父親が書いていた帳簿で、別名黒帳簿と言われていたものだ。
輸入品の目録や譲渡先、販売価格など全て記載されたもので、王家の印と専用の紙を使用していて、複製は不可能なものだ。
俺が用意したレプリカは見た目こそ似せているが、よく見れば全くの別物だということが分かる。
侯爵は黒帳簿を自宅の保管庫に置いてあることを自慢げに俺に教えてきた。その後、会合でパンドレア家に集まったときを狙って、その時に上手く偽物とすり替えてきたのだ。
これは賭けでもあったので、もし見つかってしまえば計画が壊れかねないものだ。それでも、彼のためにどうしても手に入れたいと思ってしまった。
そして今、その黒帳簿を机の上に無造作に置いている。
エリオットならあの存在に気づくはすだ。黒帳簿が見つからなかったことが、子爵の有罪の決め手になってしまったからだ。
急遽参加することになったパーティーで、俺はエリオットが男と一緒にいるところを見てしまった。
親密そうな雰囲気で、相手の男はエリオットのお尻に触れて、明らかに誘っていた。
それを見たら、血が沸騰するように騒いでエリオットの側へ行って二人の間に割り込んだ。
俺は完全に嫉妬していた。自分勝手な嫉妬でエリオットを縛ろうとしてしまった。
後先などない俺がエリオットを自分のものにする資格などないのに。
だから俺はあの帳簿を机の上に置いた。
朝起きたらきっと、あの帳簿とともにエリオットが消えているかもしれない。
きっとそうだ。彼の目的はそれなのだから。
ぼろぼろの俺を憐れんで、彼は側にいてくれたのだろう。
帳簿を持っていたことで、俺を父親の敵だと信じて王宮に訴えることなるかもしれない。
それでいいのだ。
もう、この世に未練など持ってはいけない。
侯爵を断頭台へ送った後、俺はこの世から消えるつもりだ。
愛してしまった。
孤独に埋もれた人生で、初めて生まれた気持ち。この気持ちを胸に残したまま死んでいけるのは幸せなことなのだ。
そう思いながら、隣で眠るエリオットにキスをした。
温かくて悲しいキスだった。
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