Episode2 岩馬の事

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 そんな激動の日も、他の日常と同じく終わりを告げる。僕も円さんも朱さんもその晩は泥のように寝入ってしまった。流石に次の日ばかりは朝の特訓も行われなかったので、大人しく体力の回復に努めていた。というか揃いも揃ってお昼近くまで布団の中にいた。  疲れがのしかかり過ぎて、食事も喉を通らなかったのだ。とはいえ生きている以上、何も飲み食いしなくても催すものは当然ある。  もそもそと重い身体に鞭打って、僕はトイレを目指した。  用を足した後に改めて廊下に佇む。しんっと静まり返った和泉屋の中は、昨日までの騒動を夢だと思わせるには十分だ。居間を覗いて誰も起きていない事を確認するついでに、通り抜けて台所へ出た。コップ一杯の水が胃の腑に染みわたっていく。頭の中のイメージは砂漠の砂に浸透していく雨だった。 「ふう」  冷たい台所の中に僕のため息だけがこだました。改めて家の中の静けさを実感すると途端に物悲しくなってしまう。  円さんも朱さんたちもまだ寝ているという事は、今日は惰眠を貪っていてもお咎めなしだろう。僕はもう一度布団に潜り込むために、来た道を引き返すようにして居間を横切った。  思わず出たあくびをしながら廊下に出ようと居間の衾を開けた。すると、 「おはようございます」  などと、急に聴き慣れぬ声で挨拶が飛んできた。  僕は心臓と一緒に身体ごと飛びあがって驚いた。その勢いのままに宙返りをしてちゃぶ台の上に四点着地をすると、すぐに手拭を被って声の主を見た。ここまで驚いたのは此の世にいた時の事件以来だ。  昔、近所の子供が悪戯で水を飲んでいる俺の後ろに胡瓜を置いた。何も知らずに振り返った僕は今と同じように宙返りするほどに飛び上がったのだ。まさに再現VTRのようだった。  が、今はそんな事はどうでもいい。  そこには白い着物を着た…恐らくは男が正座をしていた。  男か女か判断しあぐねいたのには理由がある。そいつの顔面の上半分が無くなっていたからだ。かろうじて鼻が残っている程度で、そこから上がそっくりそのまま切り取られたかのようだった。つまりは目や耳や髪の毛がないので、性別の判断が付けられないでいた。だから僕は声と瓦版売りのような恰好で多分男だろうと当たりをつけたに過ぎない。 「だ、誰だ、アンタは!?」 「私はこのような者でございます」  半分顔なしは懐から何かを取り出した。見た感じは名刺のようだが、まさか取りに近づく訳にもいかない。僕は半分顔なしにそれを投げてよこすように言った。  そいつは名刺を指に挟むと、 「不躾な渡し方で恐れ入ります」 と言いながら器用に名刺を手裏剣のように投げた。何をされるか分かったものではないので、相手から目を離さずにそれを掴み、一瞬だけ内容を確かめる。そこには、 『百物語綴報 記者 火登 青行』  と記されていた。  この名刺だけでは依然として正体は知れない。だが「百物語」という文言には思い当たる節がある。それを見た時、僕は昨日に加治屋の吾大が口にしていた言葉を思い出した。 「改めまして百物語綴報(ひゃくものがたりていほう)の記者で火登青行(ひのぼりあおゆき)と申します。突然の来訪をご容赦ください」 「…」 「鍋島環様に置かれましては、天獄屋にお越しになられてから日が浅く、弊社のことをご存じないかと思いますが、如何でしょうか?」 「…ああ。その何とかって組織もアンタの事もまるで見当が付いてねえよ」 「承知しました。ではその辺りからお話いたします。入ってもよろしいでしょうか?」 「否、ダメだ。そのまま廊下で話せ」  正体不明の奴を部屋に上げられる訳がない。今のところは無害そうだが、円さんや朱さんが起きてきて対面すれば隙も生まれるだろう。その時に備えて俺にできるのは臨戦態勢を整え続けることだけだ。 「では、このままで失礼をいたします」  恭しくしたお辞儀は、敵意がないことの証明だろうか。半分無くなっている頭を上げると、おもむろに語り始めた。 「私どもの所属する百物語綴報は天獄屋にて起こる事件や風聞の詳細をまとめ上げ記事にすることを生業としております。此の世の生活を知っている方に新聞社と同じようなものお伝えするとご納得して頂けます」 「まあ、何となくは分かったよ。で? アンタが新聞社の記者だとして朝っぱらから何の用だ?」 「…もう朝とは呼べぬ時間になっております」 「うるせえ。とにかく要件を言え。家主の和泉円さんならまだ寝ている。急な用事ならたたき起こすが…」 「いえ。それには及びません。私が御用のあるのはあなた様でございます、鍋島環様」  っち。こっちのことも筒抜けか。下手な事はしない方がいいと判断させるには十分な情報だった。  火登はペースを乱さずに続ける。 「本日は、鍋島環様にお伝えしたい事があり参上仕りました」 「伝えたい事?」 「はい。この度、鍋島環様におかれましては天獄屋百物語の第二話に掲載されたことをご報告いたします。まことにおめでとうございます」 「は?」  何のことかまるで意味が分からない。百物語ってあの百物語だよな…真夏の盛り、夜に集まって怖い話をして蝋燭を消すってやつ。それに掲載されたってどういう事だ?  その言葉の真意を確かめようとしたのだが、火登は話を遮ることを許さず、懐から別の紙を取り出した。今度は時代劇とかでよく見る殿さまがお触れを出す時の書状みたいなものだ。 「また、今回が初めての掲載という事になり風聞をまとめ上げた題目を認めてございます。鍋島環様はこの度『手拭被黄金纏(てぬぐいかずきこがねのまとい)』とお名乗りくださいますようにお願いいたします」  な、何だその仰々しい芝居のタイトルみたいなものは。  …そう言えば吾大と戦った時も、奴はそんな名前で名乗りを上げてたいような。確か『石刃嵐先駆』と言ったか?  「環様は天獄屋に来てから日が浅く、百物語番付のこともご承知ではないかと存じます。簡略ながらご説明させて頂きま、」  そんな中途半端なところで火登の声は途切れてしまった。文字通り跡形もなく消えてしまっていた。代わりに廊下の奥からは円さんの部屋の戸を慌てた様子で叩く玄さんの声が聞こえてきた。  もし、さっきの奴に玄さんが襲われたら一大事だと思い、俺は慌てて廊下に飛び出した。  すると丁度良く、寝癖をつけてあくびをした円さんが部屋の戸を開けたところだった。
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