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彼の腕
首無山には真っ青な紫陽花が咲き乱れていた。
今給黎製薬第二研究所。その前に立つ妙美は、二本のおさげを頭にぐるりとした外巻きの髪、紫陽花柄の新しい着物、つやつやしたパンプスを履いて懸命のお洒落をしていた。
けれど、午後の湿った風に体を一撫でされた時、「あ。――」と小さく声をあげた。薬品の匂いの染みついた割烹着を着けたままでいることに気がついたのだ。
これではほとんど台無しである。人生一度きりの瞬間は、できるだけ綺麗な自分で迎えたかったというのに。
困って、でも、もはやどうにかできる状況ではなかった。硬直して彦七を見上げるしかなかった。
すると彦七は、おやという顔をして、愛の言葉を捧げるのをちょっと中断した。
鬼瓦彦七は美しい男だ。何もせずとも誰より美しい。
涼やかな切れ長の目元、庇のように陰る睫毛、そして吸い込まれてしまいそうな黒曜石の瞳。
真っ黒な着物に引き立てられた白い肌。色香漂う首筋、鎖骨の根元。うらやましいほど麗しく伸びた黒髪は、太い組紐で緩やかにくくられて背に流れている。
彦七は何も言わず、じっと妙美の目を見つめ始めた。
見つめられただけ、慣れぬおしろいを乗せた頬がじくじくと熱くなる。――ああ。ああ、何物にも代えがたいこの喜び。逃れることなどできない、この大いなる劣等感。……
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