父の首

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 腰掛けさせられたのは、石造りの湯舟の縁だった。温かな湯を背に、体は彦七の方を向いている。  つるつるとした黒御影石に、固く絞って畳んだ手拭いが乗せられていた。妙美はその上に、鈍いような鋭いような尻を据えることになっていて、 「痛くありませんか」  と訊かれた。 「……」  と首を揺らめかせれば、労るように濡れ髪を撫でられた。  彦七は桶を手に取り、ぼんやりする妙美と交錯するように湯を汲んだ。貧相な上半身に残されたままの泡を、少しずつ丁寧に流される。  背中の方は、じょろりじょろりと、たぶんほとんど湯舟の中に滴り落ちてしまっただろう。汚れの混じった湯に、これから彦七は浸かるのかと思うと、カンテラの火の頼りなさ以上に目の前が暗くなるようだった。 「……」  床に置き去りだった泡(まみ)れの手拭いを、彼は拾い上げた。  ざっと桶に(くぐ)らせた後、また石鹸を擦る。  それから、白い両手が取ったのは、だらりと力の抜けた骨みたいな右腕だった。そうして初めて妙美は、両腕で胸を抱え直すのを忘れていた自分に気がついた。  二の腕から肘、手首、甲まで泡を伸ばされる。部位の総面積に対し、彼の大きな両手は余りあるようだった。急いだ風もないのに、洗い終えて泡を流されるまで、あっという間のことだった。 「……」  これでもう、残るのは胸と左腕だけだ。  彦七もそう思ったのだろう。睫毛のびっしり生え揃った伏し目がそこに向けられる。  妙美自身、もはや、こんな痩せ細った腕一本で何のつもりなのかわからなかった。精々ふたつの乳房の頂点を遮ることくらいしかできていない。一番隠したいのは、でっぷりと腕に乗っている、肉袋と形容するしかない大部分の方なのに。
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