父の首

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「……妙美さん」 「……」 「痛いでしょう」  思わぬ事を言われ、肩が揺れた。  妙美は返事もできず、ただ唇を震わせるしかなかった。  彼の視線の先には、左の手首に嵌めている荒い紐。単純な作りをした小さな鍵がふたつ束ねられている。  彦七の足枷と手鎖のものだ。乳房を締めつければ締めつけるほど、それらは深く肉に食い込んでいく……。  でも、まともに痛みを感じる余裕などどこにもなかった。 「――痛い……です。とても……」  ……今度こそ。  今度こそ、今しかない。  腕を外すなら、もうこれが最後の機会だろう。  今、思い切らなければならない。  もし、これでも左腕を動かさなかったら……胸を見せなかったら。  きっと妙美は、彦七という男を拒んだようになってしまう。  本当は、こんなにも、こんなにも愛しい。彼がこの山に来てくれたその時から、いつ、どの瞬間に死んでもいいと定めたほどに。  けれど、そんな心の内など関係がないのだ。本当に愛していますと、言葉にしたとて、きっともう取り返せはしないはずだ、体が拒んでしまっては。…… 「――っ……」  濡れた乳房に涙が吸い込まれていく。  彦七は、そこを見るのをやめた。  喉を乾いた鋭い風が吹き通った。目だけをひたすら潤ませながら、追い縋るように彼を見た。  彼は離れていったのではなかった。しんと冷え果てた妙美の脚、その一本をゆっくりと取り、自らの膝に乗せている。  触れる手のひら。伸ばされる泡。(かしず)くように、(うやうや)しいまでに静かな所作だった。  けれどその感触の全てが、妙美の脳からは完全に切り離されていた。彼の横顔を見た時から、腰の下、局所麻酔(プロカイン)でも施されたように別世界の出来事だった。
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