父の首

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 妙美は動けなかった。赤い薄暗闇の中、腿を見つめる彦七の瞳を、ふくらはぎを撫でる手のひらを、短い指の間を擦る指先を、息を詰めて見ているしかなかった。  もう一本の足も、同じように清められていく。  やがて、彼は桶に手を差し入れた。  陰って真っ黒に見える湯も、彼の手にそっと掬われ、滴る時には、美しい透明な輝きに生まれ変わる。  湯気が立ち、温かいのであろうそれを、彼は少しずつ脚にかけていった。手を柄杓代わりに、ゆっくりと何度も繰り返す。最後まで。 「……」  すっかり泡の落ちた肌。持ち上げていたその足を、彦七はついにタイルの上へ戻した。 「……」  彼はずっと下を見つめていた。その横顔の絶美を目撃しながら、妙美は、夢の中で遭遇した幼い子供のことを思い出していた。  一心に線路を見つめ続けていた幼子。何度声をかけても、追いかけても、小さな背を向け、歩き去っていこうとする、ひとりで……。 「行かないで……」  呟くと、即座に彼は顔を上げた。 「行かないで。私を置いて行かないで、お願い……」  目が合った。  夜空に浮かぶどんな星よりかけがえのない瞳。  それが揺らいだように見えてしまうのは、妙美のせいだ。涙が零れ続けて止まないからだ。  ……本当は、こんなことを言う必要などどこにもない。  別に、泣いて引き留めずとも、どうせ彼はどこにも行けはしないのだから。  醜い胸を見せようが、見せまいが、そんなことは全く関係がない。彼はここにいるしかない。足枷の鍵を、こうして妙美が抱え続けている限りはずっと。  けれど……言わずにはいられなかった。  足枷で縛り付ける、それだけでは意味がないということをわかり始めていた。  体を隠したまま湯舟に浸かる。入浴が終わるまで、彼は身を離して待っている。……それではだめなのだ。  だが、おそらく、彼はそうしようと決めつつあったのだろう。  もうこれ以上何もできないと悟り、諦めて、背を向けようとしていたのだろう。  妙美にはわかった。あの横顔の意味を、誰よりも理解できてしまった。…… 「彦七さんが好き……」  震えながら右手を伸ばす。  ぼやけた視界の中で、真っ白な彦七がゆるゆると立ち上がった。  体が寄せられる。でたらめに手を泳がせると、その左腕に触れた。そのまま懸命にしがみつけば、とても温かく柔らかい。  顔を見上げながら、しゃっくりで体がひくついた。
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