父の首

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「――」  左胸の上部。涙に打たれたばかりの、厚い脂肪でできた坂のようなところ。そこに火種の生じたような熱を感じた。 「――っ!」  まるでその熱さが幻であるかのように、彦七は、白い額、伏せた睫毛、通った鼻筋を妙美に見せ続けている。蜜を求める蝶の如く、ふわりと乳房に接して留まり続けている。 「……あああ……ああ……!」  ――穢してしまった。  美しい人を。その唇を、穢してしまった……!  あまりに罪深かった。醜い乳房も。眼下の光景も。  ……だが、最も懺悔するべきは。  妙美が、咎人自身が、体の底から燃え上がるような悦びを感じてしまっている……。その事実こそが本当に、どうしようもなく罪深いことだった。 「っ――」  先程のような、女としての快楽を引き出すための仕草は何もない。それなのに、彼を見下ろして、静かな唇の熱に激しく酔い痴れている。脇腹に触れているだけの指先にまで感応し、ひとりでにぞくぞくと潤んでいる。  妙美はもう身を(よじ)りはしなかった。ぴたりと止まって、吸い込む息さえ薄くして、全神経を研ぎ澄まして凝視している。彼が次にやることに期待を高めている。 「――あ……!」  ふっと熱の居所が変わった。今度は右の乳房に口付けられたのだ。  再び、優しく触れるだけの接吻だった。それでも妙美はびくりと震え、大きく呼吸を乱してしまった。  美しい人は(かお)を上げた。真っ黒な瞳に、歓喜と情欲の涙を垂れ流す女の顔が映り込んだ。  はくはくと喘ぐだらしのない口元に、彼はそっと唇で触れた。  接触した時間は短く、離れる時はゆったりと――。そしてまた清冽の瞳で妙美の目を見つめる。それによって、彼は何か言いたいことがあるのかもしれないと、頭の隅でかろうじて察することができた。
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