父の首

83/98

26人が本棚に入れています
本棚に追加
/179ページ
「……あの。あのぅ、こ、ここは……」 「――」  返事がなかった。  妙美の声かけにしても中途半端ではあったけれど……それにしても、彦七なら、「はい」という落ち着いた相槌くらい打ちそうなものなのに。  いつの間にか、頭に置かれた手のひらも動かなくなっている。  不安になって、大きく顔を上げた。  こんなに真下から彦七の顔を見るのは初めてだ。  まずは縦長の(へそ)を。次に、長い髪の毛先を認めた。幾筋か体の前に来て、盛り上がった白い胸筋に張り付いている。  翳った喉仏。尖った小さい顎。そして――強く噛み締められた唇。 「えっ……?」  呆然とする。  彦七は――この世の誰よりも美しく、涼しく、清らかな人は。  唇を噛み、奥歯を噛み、秀眉を深く寄せて。  切なげに濡れた瞳で妙美を見下ろしていた。 「――っ!?」  知らない。  彼のこんな顔は知らない。  脳がぐらぐらと揺れた。触れているものに縋りつくしかなかった。 「う――」  呻いたのは、どちらだったか。  手のひらの中で彼が震えている。  ぬるつきと、熱。存在感までもがぶわっと増した気がした。  妙美に力が入った分、手指の形が(すぼ)まり、人差し指と中指に未知の感触が訪れている。ああ、触れてしまったのだ、先端に。ここは特に、棒状の部分よりも大きく腫れ上がっているから。―― 「……っ」  本当に、皮膚のない腫れ物をそのまま撫ぜたような危うさがあった。いけないと思い、慌てて指先を浮かせば、透明な液体が銀糸となって細く伸びた。  丸っこい肉の中心部には、浅い一本の縦溝があった。その先にごく小さな穴が開いていた。ようやくわかった、ぬめりはそこから生まれているのだ。  今も穴の中から、丸い雫が一滴ずつ、つぷつぷと膨らんでは濡れた表面に滲んでいく。そそり立つ部分にまでなお垂れて、包み込む妙美の手のひらをも湿らせた。
/179ページ

最初のコメントを投稿しよう!

26人が本棚に入れています
本棚に追加