彼の腕

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 そっと抱き寄せられた。 「あっ……。ひ、彦七さん」 「なんですか」 「いけません。その、お召し物に、おしろいがついてしまいますわ……」  黒い着物の肩口で必死に訴える。手のひらでとっさに顔面を覆ったので、鼻が押しつぶれておかしな声になってしまった。  背中を優しく撫でられた。全身からみるみる発汗していくのがよくわかる。ただでさえ、男の腕の中という初めての居場所で、一体どんな顔をしていたらいいのかわからない。  そんな硬い体を、彦七は一層甘く柔らかに抱擁した。 「あなたのならいっさい気にしません。おしろいでも何でもつけてやってください」 「あ……」 「どうかいつまでもこうして抱き締めさせてください。あなたと俺と、どちらかの命が尽き果てるその日まで」 「……!」  ピカリと世界が真っ白に発光した。そのすぐ後、低く垂れ込んだ暗雲の向こう側から、鈍く激しい音が降りてきた。  妙美が全身から震えたのは、雷に驚いたからでも、それが恐ろしかったからでもない。  雷光よりも先に、何か別の大きな衝撃に体を貫かれていた。痛いというよりも、そこからトロトロと心が弛緩していくかのよう。  知らず、熱い悲鳴に似た吐息が洩れている。  妙美はもう躊躇しなかった。潤んだ瞳を彼の胸に(うず)めながら、ゆっくりとその背に両手を添えた。  その一部始終を、すぐ目の前で、宝迫(ほうさこ)典友(のりとも)は呆然と立って見守っていた。  きちんと着込んだ背広、櫛を通してしっかり固めた髪。足元に落ちて泥だらけになった風呂敷包みは、妙美に贈るつもりだった菓子か何かだろう。  典友はつい先日、妙美の夫となった人物だった。
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