彼の腕

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「これは。……これは一体、どういうことだ?」  わなわなと(おのの)きながら、典友は一歩前に踏み出した。 「た――妙美。君、僕の妻だろう。なんでそいつに会っているんだ。そんな……そんな汚らわしい不逞(ふてい)(やから)なんぞに、なんで。……」  もう一歩、また一歩。近寄るほどに呼吸は大きく、重く激しくなっていく。  男爵家の血を引く典友は、その家柄と名にふさわしく、いつも典雅な人だった。  それでいて志があった。妙美さん、僕はいずれ父の跡を継ぎ、立派な代議士になってみせます。大いに祖国を盛り立てる男になるのです、そう言っていた。……  彦七に全身を委ねつつ、妙美は片目だけで典友を眺めている。  ふと、いつか父と鑑賞した能舞台を思い出した。すぐ近くまで来た夫は、あの時見た能面そっくりの顔をしていたからだ。真っ赤な目と口を怨の字に押し開き、髪の生え際から角の生えつつある生成(なまなり)面。 「離れろ、貴様!」  めちゃくちゃに振り回される腕を、彦七は女一人抱えたまま最低限の歩幅でかわした。典友が歯ぎしりしてまた向かってくる。彦七はまたやり過ごす。  そんな暖簾に腕押しを全力で繰り返していては、足元はどんどん危うくなっていくし、背後からにじり寄る気配にもまるで気づくことができない。何本もの腕に一斉に締め上げられて初めて、わーッと悲鳴をあげた。
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