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1話:地下牢の出会い
砦の地下は薄暗く、汗と錆の臭いがする。そこへ向かって、高い軍靴の音が降りていく。カツン、カツンという音をたてるその人は、この薄暗い世界では魔王のようだった。
長くサラサラとした黒髪は下ろされたまま背を隠し、黒い軍帽を目深に被り、膝まである長い軍服を一分の隙もなく纏っている。長身ほぼ全てが黒い中で唯一、手袋をはめる手だけがほっそりと白い。
この地下世界は悲鳴で溢れている。浅い部分はまだ悲鳴を上げるだけの元気がある。だが、奥に行くにつれてそれは呻きにかわり、やがて声すらも聞こえなくなる。今いるここは静寂が煩い。
「そろそろこの辺りを整理しておけ。有力な情報は出たか」
「アルゴルン派が近く、この第8ブロックを攻め入るという噂がありますが」
「そんなものは年中ある噂だ。せめて情報レベルで扱えるものを出せ」
「それはもう無理ですね。まともに話せる奴はこの辺にはもういませんよ」
「処分しろ」
地下で監視をしている兵士が笑って言うのに、黒衣の男も苦笑で返した。
普通ならばこのような物言い、上官に対して不敬だ。他に聞かれれば咎められるだろう。おそらくこの兵士も地上でならばこのような振る舞いをしていない。ここが地下で、この人物がここに趣味できているから許される事だ。
「ルナウザ大佐、こちらです」
「ユナ」
奥の方から声がして、男は視線をそちらへと向ける。そこには同じく黒い軍服を纏った青年が立っていた。
だが、受ける印象はまったく違う。整った顔立ちに短い銀髪の彼は同じ服装でもキラキラしてみる。圧迫感もない。
「ユナ、俺への献上品だと聞いたが? 余程いいものなんだろうな」
「まぁ、俺の目から見ても極上品ですね。誰も手を付けておりませんので、お気に召すかと」
隣ではなく少し前を歩くユナに、黒衣の男は綺麗な唇を僅かに笑みの形にする。そして、とある一室へと彼を通した。
「ここからは俺だけでいい」
「構いませんが、噛みつかれませんように」
そんな忠告をしてから、ユナは扉の鍵を渡して去ってしまう。彼なりの気遣いか、もしくは見ていたくないか。まぁ、どちらでもいいのだが。
無造作に鍵を開け、扉はそのままにしておく。逃がす気なんてないが、こうしておくと大抵が希望を見る。逃げられるのではないかと儚い夢を見て。それが絶望に染まる様もまた愉快だった。
抵抗すれば始末する。従うならばしばらく生かしておく。気に入れば一度くらいは相手をする。だが、大抵は一度味見をしたら興味を失い二度目はない。部下に払い下げてお終いだ。
特別に作られた部屋は他の部屋に比べて綺麗だ。ベッドもあるし、椅子と机もある。他は備え付けの便器が剥き出しだが、ここは一応目隠しのカーテンで仕切られている。なぜならここはそのまま、男のお楽しみの部屋でもあるのだから。
そこに、今は一人の青年がいる。セミロングの金髪に、強く綺麗な青い瞳。綺麗で勇ましい印象を与える顔立ちは凜として好まし思える。だが、纏う赤い軍服が彼の所属を知らしめている。
「名は?」
「名乗る必要性は?」
間髪を入れずにはっきりと質問で返すあたり生意気だ。潔癖そうでもある。なるほど、これは上物だ。
ここに連れてこられる奴も大概が濁った目をしている。まぁ、それぞれだ。最初から怯えきって会話すら成り立たない奴もいれば、男に媚びを売って少しでも長く生き延びようとする奴もいる。
だが、これは初めてだ。この腐った、クソくらいな世界にいながらまだ生きた目をしている。なんて生きにくい、なんて馬鹿な生き方を選んだのだろう。可哀想な青年だ。
「まっとうそうだな」
「あんたの趣味はイカレてるな。毎晩煩い」
「だろうな」
クツクツと笑う男に、金髪の青年は嫌な顔をして睨み付けてくる。案外感情的なのかもしれない。既にそれが貴重だ、動く感情があるのだ。
「もう一度聞く。名は?」
「名乗る必要はない。どうせ私もこのイカレた場所でお前の玩具にされるんだろう。違うか、ライゼン・ルナウザ」
フルネームで呼ぶのは侮辱の意味があるだろう。お綺麗な顔で勇ましいものだ。
面白い青年だ。案外悪くない。思うのだが、それも今だけのような気もする。どうせ一度抱けば終わりだ。
「いいだろう。お前の望む通り玩具にしてやる。名など必要ではないしな」
これでも名を問うのはライゼンの中では珍しい事だった。それだけ好みだったともいう。やる事は同じでも人として名を呼んで致すのと、もののようにされるのとでは感情的に違うだろうと思ったのだが。
それを拒むなら別に、何ら問題はない。
ライゼンは笑みを浮かべて帽子を脱ぐ。深く被ったその下から見えた顔を見て、青年は目を丸くしてしばしジッと顔を見てきた。
ライゼンの顔はとても整っている。スッと通る鼻筋に、ほっそりとした輪郭。切れ長の紫色の瞳は鋭くも魅力的だし、白磁の肌は肌理が細かい。薄い唇も、そこに浮かぶ笑みも全てがこの悪魔の魅力だ。
「質が悪い」
思わず口に出たのだろう青年の言葉に、ライゼンは声を上げて笑った。思った事がそのまま口に出るなんて、この時代では路上の子供だってしない。迂闊が過ぎる。
「無防備が過ぎるな」
「煩い!」
「まぁ、よく言われる言葉だ。悪魔は美しい容姿で人間を魅了するそうだ。俺にはぴったりだろ?」
笑みを深め、ライゼンは青年へと歩を進める。そしてほっそりとした指で青年の顎を掬った。
「では、悪魔に抱かれる気分を存分に味わえ」
服の前に手をかける、その手を青年は拒み振り払った。おそらく捕まった当初から献上品として大切に幽閉されたんだろう。その分体力もある。
楽しい。久しぶりに活きのいい獲物だ。全ての手を振り払って逃げる奴なんてどのくらいぶりだろうか。獲物というならば追わなければ面白くない。ライゼンは口の端を上げて冷たい笑みを浮かべた。
「抗うか。扉は開いているぞ? 逃げてみるか?」
ライゼンの背後の扉は開けてある。そこを突破したとしてもこの地下牢から地上に出ることはほぼ不可能だろうが。
だが、青年の瞳は歪み、影を作り、今までの活力を失った。
「……逃げない」
その言葉は、どういう意味なのか。
動かない青年をライゼンは捕まえた。もうそこに抵抗の様子は見られない。諦めたのか? いや、そんなには死んだ目をしていない。暗い底から光りを放つ、不穏な意志を感じる。
何を思っている? 何を抱えてここにきた?
ライゼンの手を受け入れる、その体は震えている。恐怖なのか、潔癖故か。今は我慢をしているだろう。なんのために、こいつはぎこちない手で背に触れようとする。
「どうした? 俺に、抱かれる覚悟が出来たか?」
耳元でそう囁く。背に手が触れて、抱きしめてくる。震えながら。その手がゆっくりと下へと降りていくのを感じて、ライゼンは理解して溜息をついた。
ドンッと胸を押した青年の手には抜き身のナイフがある。護身用に持っているものだ。それを構えて、青年は此方を睨み付けた。
「来るな」
「それが欲しかっただけか。どうする? この砦から逃げるか? 俺を殺して。それとも人質にしてみるか?」
馬鹿らしい。体術一つでもこの青年一人を取り押さえることは容易い。何よりも銃を持ち出されればどうする事もできない。そんな事も分からない浅はかな青年だったのかと、ライゼンは落胆した。
だが、違ったのだ。青年がその切っ先を向けたのは、己の首だった。
「どこにも、逃げられない」
目を閉じ、流れた涙を見た瞬間ライゼンは動いていた。何かとてつもなく大切な、綺麗なものを失う気がしていた。在りし日、この手にあったのと同じ輝きを放つ温かなものを再び失うような気がしたのだ。
躊躇いのない動きで青年は己の喉を一突きにしようとした。だがその前にライゼンはその刃を自らの手で握った。皮の手袋は見事に裂けて血が滴ったが痛みはない。それと同時に拳で、青年の鳩尾を殴った。
崩れ落ちた青年がそのまま腕に落ちてくる。握っているナイフを無造作に床に投げ捨てたライゼンは、何故か心底安心して溜息をついた。
「まったく、らしくない」
こんな青年、傷を負ってまで助ける意味はない。多少綺麗というだけだ。
……違う、似ていたんだ。潔癖なまでに澄んだ目が、大切だった人達に。
「この玩具は、繊細だな」
だが、悪くない。繊細なものは好きだ。この壊れてしまった世界に残っている数少ない綺麗なものを手に入れた。これを手元に残せるかは分からないが、生きているという実感を赤いものと鼓動でしか感じられない世界で得た貴重品だろう。
そして、恋愛というゲームは儚く美しく、そして面白い。感情の動く駆け引きはスリリングで、生きている事を実感させてくれる。
「俺は飽きっぽいんだがな。まぁ、これも気まぐれか」
だが、拾った命だ。ならば、拾ったもの勝ちだろう。
ライゼンは彼の体を抱き上げ、そのまま出ていく。少し離れて残っていたユナは驚いて声をかけたが、ライゼンはそのまま地下牢を出て行った。
そして更に進み、砦の二階にある自室へと運び込み、丁寧にベッドへと運び入れた。
日の光の中で目を閉じた青年は予想以上に美しかった。少し汚れているが、金の髪が光りを反射してキラキラしている。白い肌も柔らかく、唇はバラ色だ。
「大佐!」
「大きな声を立てるな、ユナ」
「……せめて怪我の手当をさせてください。手、酷いですよ」
指摘されて見たら、確かに血まみれで酷い有様だった。あまり頓着しなかったのだが。
呆れ顔のユナが溜息をつき、救急用の医療ボックスを持ってきて手当をしてくれる。切れた部分を消毒し、必要な部分を縫って、薬を塗り込み包帯をして。流石、手際がいい。
「何をしたらこんな傷を作るのです。彼は無傷で貴方が血まみれなんて」
「痛くないから平気だ」
「そうでしょうね。これだけ深ければ痛覚など麻痺したでしょう。ですが、怪我をしている事に変わりはありません。もう少し頓着してください」
お小言なのだが、これが案外悪くない。ユナもライゼンのお気に入りだ。昔からの付き合いだし、実際によくサポートしてくれている。感謝もしている。だが断じて夜の関係ではない。
「それで」
「ん?」
「どうして彼をここに連れてきたのですか。部屋に入れるなんて、今までなかったでしょ?」
そう言われるとそうだ。ライゼンは縄張り意識が強く警戒心も強い。自分の寝室なんて一番の私的空間に他人を、しかもさっき出会ったばかりの青年を入れるなんて本来ならあり得ない。
あり得ないのだが……。
「気まぐれだと思う。あと、綺麗だ」
「気まぐれって……」
呆れてものも言えないというユナを笑い、ライゼンは青年の髪を梳く。その表情はずっと穏やかなものだ。
「ユナ、この青年の情報分かるか?」
「所持品はありませんでしたが、服の裏側にセイランとだけ名がありました」
「セイラン、か。名前までお綺麗だ」
本当に、何処までもお綺麗な青年だ。これでは息をするのも大変だろう。むしろ、よく今まで無事でいたものだ。真っ先に餌食になりそうなものなのに。
まぁ、その辺が色々絡んでさっきの行動だったのだろうが。
「こいつ、自害しようとしたぞ」
「え?」
ライゼンの声にユナが反応し、気遣わしい顔をする。こいつにも覚えがあるだろう。だからこそ、こんな顔をするのだ。
「この世に逃げられる場所はないから、俺から逃げようとはしなかった。あの世なら、まだ夢が見られると思っているんだろう」
「夢、ですか。辛いですね、そんなもの」
「潔癖だ、生きづらいことこの上ない。気も強いし、穢れる事を拒んでいる。人生嫌になったのかもな」
「可哀想ですね」
「お前もあるだろ、そういう覚えは」
途端、ユナは表情を暗くする。だがこの男の好ましい所はその目に殺気を宿す所だ。自分を犯した元の上司を殺したのはこいつなのに、まだ恨みがあるらしい。
「ユナ、まだ憎いのか?」
「憎いですね、反吐が出るほどに。尻から鉛弾食わせただけでは収まりがつきません」
「怖い奴だよ、お前は」
「貴方ほどではないと思っていますが?」
「ははっ、確かにな」
弱肉強食とはよく言ったものだが、軍はそんなお綺麗な世界じゃない。歪んだ欲望と肉欲が当然の様にまかり通っていた。歪んだ肉欲が部下を潰し、それに耐えられなければ消えていく。屈辱を飲み込み汚泥を啜り上へと這い上がるか、絶対的な強さで己を守り切り上司に疎まれ、それでもそんな豚上司を踏みつけ蹴り落としていくかしかない。
今目の前にいるこのセイランという青年は、今まさに堕とされる寸前だったのだろう。
「綺麗なまま己の人生に幕を下ろすか。なかなか高潔で、悪くない考えだな」
「貴方の好きそうな子でよかったですね。ですが、そんな子をどうするおつもりです?」
「落とす」
「難しい事を言いますね」
「難しいからこそ面白いと思わないか?」
悪い事を考えているライゼンの笑みを見て、ユナは一歩引いた。
「こいつが俺に落ちてくるのを、じっくりと待つ事にするさ」
「悪い人。責任は取って下さいよ」
「あぁ、分かっている」
呆れた様子で出て行くユナに構わず、ライゼンはセイランの髪を梳いた。そして着ている衣服を一つずつ脱がしていく。軍人なのだから傷の一つもあるかと思っていたが、意外なほど綺麗なままだ。多少の擦り切れなんかはあっても数日もすれば消えるだろう。
いつか、この潔癖で強情そうな青年の口から求める言葉を言わせてみせる。欲しいと思わせてみせる。最もスリリングで馬鹿げたゲーム。そして、最も残酷なゲーム。恋愛は人の心を縛り、弄べば傷は深く永遠に残ってしまう。それでも人がそれを求めるのは、誰かの中に爪痕を残したいからなのかもしれない。
痛みながら、憎み憎まれながらも思われていたい。生きた証を刻みつけたい。
「……馬鹿馬鹿しいな、俺も」
苦笑したライゼンは立ち上がり、寝室を出て隣の執務室へと移った。あと少し残った仕事を片付ける為と、近くゴミ掃除の計画を立てるために。
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