第八話

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第八話

 秋を感じたと思ったら、急に周りの空気が冬になっていた。大人だって、この急な温度変化に体がついていかないと思っているのだから、子供なら尚更だと思う。  そんな季節の変わり目。  この日、園児が急に熱を出し保護者のお迎えがくるまで侑斗がみていることになった。  朝は元気だったのになぁと思いながら、いつも笑顔いっぱいの子がつらそうにしているのを見ると心が痛かった。ちょうど外遊びの時間で、他の子たちは園庭で元気に走り回っている。  風邪だったら他の園児にうつるかもしれないからと、別の空き部屋でお昼寝用のお布団を出して「お迎えがくるまで、寝てようね」と声をかけた。ただ言って素直に寝てくれたら、先生も保護者も苦労はない。  寝るどころか、誰も居ない広い教室にテンションが上がってしまったのか、走り出してさぁ困った。  さっきまでしんどいと訴えていたのは嘘だったのか? と思って捕まえておでこをさわってみればやっぱり熱くて、侑斗は子供って分からないと思った。自分だったら三十七度を超えた時点でもう体が動かなくなるし、一歩だって動きたくないって思う。  目の前の子のように飛び跳ねて走り回るなんて無理だ。とにかく体温計の数字を見た時点でダメ。自分の体調を知るために体温計で熱を測ったこと自体を激しく後悔する。  一人暮らしだと、ご飯は自分で調達しなければ、魔法でも使えない限り出てこないのだから、体調不良を疑うなら、まず熱を測る前に病人になる準備をしておく。  一人暮らしも長くなれば、そんな知恵までついていた。  しかし子供なら走り回るのも仕方ない。悲しい生活の知恵なんて、大人になってから覚えればいい。もちろん自分は先生だから、保護者に子供を引き渡すまでは、無駄とわかっていても最大限努力はする。 「ひろくん、ほら、お布団でお母さん待ってようね、お熱上がっちゃうよ」 「やだーっ」  嫌と言ったその声が少しかすれていて、咳も出ている。あぁ、やっぱり風邪だと思った。 「じゃあ、先生とお絵かきしようか」  とにかく大人しくさせようと、走り回る男の子をひょいと抱き上げて、お昼寝布団の前まで連れてきた。抱き上げたら抱き上げたで、きゃーきゃーと楽しそうに大騒ぎ。体重は軽くても暴れる子供は腰にくる。  子供を機嫌よく一発で寝かせる魔法があったら、親御さんたちだって苦労しないだろうなと思いながら、侑斗は教室の片隅に置いてあった画用紙とクレパスを男の子の前に置いて広げた。 「おえかき?」 「そ、お絵かきしよ、先生も描くよ」  自分から提案したものの、よくよく考えれば昔から壊滅的に絵心がなかった。同僚の先生たちは、連絡帳や、お手紙に可愛いイラストをさらさらと描いて子供たちからも評判がいいが自分は苦手だからシールを貼る。パズルは作れても侑斗は基本的に全方面不器用だった。  仕事ではクロスワードやナンプレ、絵を浮かび上がらせるようなロジックパズルも作るが、イラストロジックだけは、毎回、担当編集にアレコレ難癖をつけられる。  ――え、これ亀ですか? メロンパンかと思いましたよ。あははは。  そう言って笹山に大爆笑された過去の苦い思い出が頭に浮かんでくる。その通りだと思ったけど、死ぬほど恥ずかしかった。その後、亀に見えるまで修正したのは、作家としてのプライドもあったけど、単純に負けず嫌いだからだ。  以来、イラストパズルは依頼されない限り、自分からやりたいと言わなくなった。  熊沢に遊んでもらっていた小学生のときは、お絵かきだって好きだったし、パズルと一緒にいつも描いていた。 「せんせー、なにかくの?」  走り回っていた男の子も、侑斗が真剣に画用紙の前で、うんうん悩み出すと同じように隣で電車と線路を描き始めた。自分よりも上手で悲しくなる。 「うーん。先生の嫌いなもの?」 「きらいなのに、かくの?」 「きらいだからかなぁ」 「せんせぇ、でもそれ、線ぐにゃぐにゃだよ、へたっぴ」 「うん。先生、絵下手なの。でも、最後まで描いたら、きっとわかるよ」  大人相手なら、絶対隣で絵なんて描きたくない。相手が子供だから、お絵かきをしようと言えた。下手と言われても恥ずかしいとは思わない。  だって下手なのは事実だから。  誰かにバカにされたくない、大勢の前で恥ずかしい思いをしたくない。いつだって、小さい人間で、情けなくて、見栄っ張りだ。  読者の手紙を読んでから、こんなことばかり考えて何度も自己嫌悪する。 (あんなに、好きだったのにな。迷路)  侑斗は画用紙に迷路を描き始めた。  線をなどっていけば、最後には絵が浮かび上がるものだ。  子供のときは、好きでよく描いていた。  右上にウサギの顔を描く。そして、左下にクマの顔を描く。そして、侑斗が大嫌いなあの忌々しいものを思い浮かべた。そして、その図を思い浮かべながら、順番に曲線を引いていく。  隣で静かに遊んでいる子供の様子を気にかけながら、自分も一緒に遊んでいた。作家としてのお仕事じゃないと思うと、アイディアが溢れてくるから不思議だった。いつもはあんなに苦労して捻り出しているのに。  今度は、あれがやりたいなぁとか、こうすれば、楽しんでもらえるかもしれないと、次々に面白いことが浮かんでくる。  ずっとスランプだと思っていたのに、いまは全然大丈夫だった。  隣で真剣に侑斗が描いているものを見ている男の子は、次第に単調なクレパスの動きに、目がとろんとしていた。  早く寝て欲しいなと思っていたけれど、侑斗の絵が完成する前だったので、ちょっぴり悲しい。  うとうとし始めた男の子を布団の中に入れて、ぽんぽんと背中を叩くと、その音に応えるように、すーすーと微かな寝息が聞こえてきた。  せっかく寝たけど、そろそろ、お迎えが来るだろう。部屋の時計を見ようと振り返ると、人がいたことに驚いた。そこには腕組みした熊沢が立っていた。 「迷路の答えは、にんじん、だな」 「なっ……」 「大きな声出したら、起きるぞ?」  慌てて、声を小さくした。 「なんで、いるんですか」 「いや、職員室のコピー機使おうと思って前通ったら、先生が遊んでたから、ほら注意しようと思って」 「遊んでないです。仕事してました」  そう答えたけれど、少しだけ楽しくなっていたのは事実だ。 「けど、ニンジン嫌いじゃなかったの? 絵描くほど好きになっちゃった? 俺の食育のおかげかな」 「違います……。嫌いだから、怒りを込めて描いたんですよ」  ただ思いついたから迷路に描いてしまっただけだ。不満げな顔で熊沢の顔を見上げると、熊沢の目が急にふっと優しくなって、心臓が大きく波を打つ。 「けど、やっぱり、すげぇなぁ」 「何がです?」 「……ほんと、昔からパズル作ってる時だけは、目の色変えて、かっこよくなるんだよな先生。ニンジン食えないし、友達いないぼっちなのに、キラキラしちゃって」  熊沢の言葉に目の前が一瞬で暗くなった。ただ迷路をかいただけ。誰にだって、こんなものは作れる。もし、たとえパズル作家だとバレたのだとしても、自分が天龍寺豪鬼だと分かるはずがない。 「何、言ってんですか、熊沢さん」 「え、何って、職場で迷路作ったってことは、ついに情報解禁かと思ったんだけど違う?」  大きな熊が今にも獲物を食べようとするときの顔をしていた。そんな顔リアルでみたことないけど、自分の自画像のイラストが、シャケをくわえているから、その時の爛々とした目だ。  得意げに答えを言い当てる。 「天龍寺豪鬼先生、だろ。うさぎ先生」  熊沢からの手紙を読んだとき。いつかバレるんじゃないかと、頭の片隅で警鐘は鳴っていた。  熊沢がパズルが好きで熱心な読者だから。いくら苗字が変わっていても、侑斗のパズルが好きなんだったら気付くんじゃないか。気づいてくれたら嬉しいのに、でも、嬉しくない。その両方の気持ちがあった。  綺麗な思い出を自分のせいで汚してまう気がして、嫌だった。  でも、面と向かってお礼を言いたかった。でも、言えるわけがないと思った。 「……し、知らない」  苦し紛れにそう答えた。 「知らないわけないだろ。その名前、俺が先生にあげたんだよ?」  ――知ってる。もう、思い出したから。 「は、あげた? なんのことですか」 「演技下手かよ。それとも記憶喪失? 酷いなぁ。俺、手紙にあんなに先生のパズル好き好き書いているのに」  記憶喪失でも酷い人でもいいから、今は、しらを切り通したかった。  言いたい、でも言いたくない。  何も決められずにいたら、園庭側のガラス戸が開く音が部屋に響く。 「宇津木先生、ひろくんのお母さん来ましたよ」 「あ、はい!」  タイミング良くお迎えが来て、問題を先延ばしすることができた。 「いまは記憶喪失でもいいけど、明日までにちゃんと思い出しておいてね。パズル大好き侑斗くん」  背後から下の名前を呼ばれ、逃げられる気がしなかった。  いつから知っていた? 最初から?  聞くのが怖いのに知りたいと思う。その場で行ったり来たり。  ずっと解けないパズルを解き続けているような気分だった。
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