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第一話
気持ちがせめぎ合っている。
透き通った心地よい秋晴れの空。かわいい園児たちの笑い声。
(目の前が布団だったらいいのに。仕事したくない)
午前九時半。職員室から門へ向かう宇津木侑斗は、今にも倒れそうだった。
空腹と寝不足でさえなければ、朝の空も園児の相手をするのも大好きだ。何より保育士の仕事は好きでやっている。けれど、もう一つの好きでやっている仕事が保育士の仕事に支障をきたしていた。
朝方まで雑誌に載せる「パズルの原稿」の締め切りに追われていた。近頃スランプ気味で、どんどん制作スピードが落ちている。こたつ机の上で伏せて寝たせいで、セルフレームの黒縁メガネも指紋で汚れて視界が曇っているし、頭の後ろには鳥みたいに跳ねた寝癖がついたままだった。
保育園の朝の時間は殺人的に忙しい。園児が登園する前に使用する部屋の掃除を終わらせ職員たちで朝の会を行う。それが終わったら休む間もなく、お迎え準備。
作家と保育士。
自分が望んだ二つの仕事だが、締め切り前は寝不足になってしまうので、朝の仕事は辛い。言うまでもなく絶賛スランプの作家なのでパズル作家の仕事も辛い。
門の近くで子供たちと保護者に明るく挨拶しながら、人が途切れたときに人目を盗んで、あくびをしていた。
「おぉ、仕事中に大あくびだなぁ、せーんせ」
「ふぁ、は、あ?」
横に立っていた同僚の熊こと熊沢秋生に目撃されてしまった。目があった瞬間ニヤリと歯を見せて微笑まれる。
気を抜いていたので変な声をあげてしまった。
侑斗より上背があり、近くに立つと少し見上げなければ視線が合わない。
デカい熊。
無論、熊といっても強面でも毛むくじゃらでもない。どちらかといえば整った凛々しい顔をしている。子供が大好きな戦隊シリーズで日曜朝に変身してそうな男だ。
(さわやかに崖の上から飛びそう)
女性ばかりの職場で唯一同性の侑斗が話しかけやすいのか、何かにつけて絡んでくる。
「おはよ、元気ないな」
「……おはよう、ございます」
もごもごと返事したら、また楽しそうに目を細めて笑われる。
侑斗は二つ年上の熊沢を怖いと思ったことは一度もない。けど、とにかく自分より大きいので身長差から大きな熊に見下ろされている気分になる。
他の先生たちから付けられた熊沢のあだ名は、森のクマさん。
お嬢さん、歌いましょう、ららららら。
明るく気のいい陽気なクマだ。周囲からウサギ先生と呼ばれるひ弱なイメージの侑斗とは正反対。
「で、なに死にそうな顔して、大丈夫? 体調不良? 栄養足りてる?」
足りてないって言ったら、口の中にカロリーバー突っ込まれそう。
「寝不足なんですよ」
「目の下に隈べっとりさせちゃってまぁ。不健康だなぁ。クマは俺の専売特許なんだけど」
熊沢はそう言って自分の黄色いエプロンの胸元を指差す。そこにはクマのイラスト付きの名札がついていた。
「熊違いですね」
「つれないなぁ」
愛想なく返事した侑斗にも、熊沢は嫌な顔一つせずに笑顔を崩さない。
「で、熊沢さんは、なんでここにいるんですか? 先生じゃないのに」
「一応、俺、給食の「先生」だよ?」
「そう、ですけど」
「ま、細かいことは気にしない気にしなぁい」
大きな口で笑う熊沢をあしらいながら、やってきた保護者と園児に挨拶をした。
「調理室いなくていいんですか? サボってたら、調理師さんたちに怒られますよ」
「うん。今日は人数足りてるから、邪魔だって追い出されちゃったの。ほら、あの部屋狭いから」
確かに、その大きな体で狭い調理室をウロウロされたら邪魔だろうと思う。調理室に限らず、職員室でも一番デカいから存在感があった。
「だったら、給食の時間まで職員室で仕事片付けてたらいいじゃないですか、事務仕事だっていっぱいあるんでしょう」
「あるよぉ。俺、忙しいもん」
熊沢は園で管理栄養士の仕事をしている。給食の調理以外にも献立の作成から食材の発注、園児への栄養指導など仕事は多岐にわたる。別に侑斗と一緒に朝のお迎えをやってはいけない決まりはないが、率先してやる必要もない。
「ま、せっかくだし子供たちの顔見ておこうと思ってさ。机に座ってチマチマ文章作る前に元気が欲しいだろ」
キリッと大真面目な顔で返してくるから、侑斗は思わず釣られて吹き出してしまった。かわいい子供たちの笑顔じゃなくて、別に可愛くもない、どちらかといえば苦手な熊沢の笑顔で。ムカつく。
「お、やっと笑ったな。園児の前では、にっこにこ笑うのに、先生たちの前では笑顔の出し惜しみするよね、ウサギ先生はさぁ」
「宇津木です。別に、出し惜しみしてるわけじゃ」
「そお? 笑ったら可愛い顔してるのに、しけた顔ばっかして」
熊沢はからかうように言って侑斗のウサギの名札を指でパチンと弾く。
出し惜しみをしているわけじゃなく、熊沢のように人前でニコニコするのが苦手なだけだった。子供相手なら自然に笑える。でも同僚の前だと意識しなければ視線をそらせてしまう。昔からの癖だった。
「つかさ、園児たちと同じ健康に配慮した給食食べてるのに、なーんで宇津木先生は、毎日不健康そうな顔して、ふらふらでお仕事くるんでしょうねぇ!」
ねぇ! としゃがみこんで熊沢は園児に声をかける。突然話しかけられた子供は、きゃっきゃっと楽しそうに、隣の大きなクマに抱きついた。熊沢は侑斗より保育園の先生に向いている気がした。子供たちと同じ目線で元気に会話できるのは、ある種の才能だ。侑斗はいまだに照れが残っている。
「クマせんせい、きょうの、きゅうしょくなんですか?」
「ん~。まだ秘密なんだけどね。ひろとくんの好きなものがあるよ」
はにかみながら、まとわりついてくる子に熊沢は、至極ご満悦な様子で笑顔の大安売りをしている。
侑斗にはとてもできない芸当だ。
「たのしみだなー」
「ね。楽しみだよね。ウサギ先生も楽しみにしてくれたら、クマ先生も嬉しいんだけどなぁ」
そう言って、ちらりと視線を侑斗に向けてくる。
「すみませんね。好き嫌い多くて」
地を這うような声で侑斗は言った。
不健康な生活をしている自覚はある。今日だって朝食は食べていない。保育園で働いて園で出される給食を食べていなければ、大きな病気の一つや二つしているだろう。それくらい侑斗は偏食だ。
熊沢に抱きついていた子は他の先生に呼ばれて、パタパタと教室へ走っていく。それを横目に熊沢はわざとらしく肩を落とした。
「子供は可愛いねぇ。先生くらいだよ。俺の考えた素晴らしい栄養バランスがとれた給食に駄目出しするの」
駄目出しはしていない。
苦手だと作った本人に言うだけだ。文句は言うが今日まで残したことはない。
(残したところで、熊沢さんに見つけられて問答無用で口の中に突っ込まれるし)
侑斗は眉間に皺を寄せて隣の熊沢を見上げた。
「でも、最近わざとですよね」
「え、なにが」
熊沢は首を傾げた。
「ぼ、僕が嫌いなもの選んで、あえて献立に入れてる」
常々文句を言おうと思っていた。が、熊沢は図星を突かれた表情をするどころか、言った瞬間思いっきり腹を抱えて爆笑する。園庭に響き渡るでかい声だ。
「腹いてぇ、先生のためだけに、そんな贔屓するかよ」
「な、だ、だって!」
「普通に予算と園児への食事指導の観点から適切にやってるって」
「その、食事指導に絶対、僕が入ってるだろ」
「ないない、せんせーおもしれー」
「面白くないです」
「ま、先生、嫌々でも残さず食べてくれるから許してやるよ」
「どうも」
「もっと美味しそうに食べてくれると、さらに嬉しいんだけどなぁ」
「他、当たってください。熊沢先生のご飯喜んでくれる人なら、いっぱいこの園にいるでしょう、しかも、可愛くて僕と違って毎日笑顔で元気一杯ですよ」
侑斗は、教室へ視線を向けた。
「えー。俺、一番先生に喜んで欲しいんだけどなぁ」
「なんで、僕なんですか」
「そりゃ、園児たちより食育しがいのある子だから。最近なんかやりがい感じちゃってさぁ」
「……や、やっぱり、僕の食育している自覚あるんじゃないですか!」
「バレたか。来週ピーマン刻んで入れたろ」
「絶対にやめてください!」
にやにやと意地悪い顔をして笑っている。本当に腹の立つ熊だ。
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