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1.苦さを探して
本当に久方振りに聴く、チリチリと鳴る軽いベルの音。ブラウンの扉を開くと、相変わらず眩いほどの白い壁紙の店内。天窓から穏やかな春の陽射しが差し込み、コーヒー豆が詰まった寸胴の瓶に反射してキラキラと店内を彩っている。
「おぉ、やよい。いらっしゃい」
カウンターの内側に立っているマスターが目尻に皺を作り、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。
「ん。久しぶり、マスター」
深く煎られた芳醇なコーヒーの香りが店内に充満している。それもそのはず、カウンター席には先客がいた。
「本当に久しぶりだなぁ。やっぱり変わらず忙しいのか」
「まぁね……」
苦笑しながら投げかけられた問いに、はぁ、と小さくため息をこぼしながら扉を閉め、勝手知ったるという風に店内へ足を向けた。カウンター席は6席、その中央には黒髪短髪のすらりとした長身の男性が幼い子どもを膝に抱きかかえており、2席空いた一番奥の席には見知った男の顔があった。その存在を無視するように入り口に一番近い席に腰かけると、中央の男性と視線が合い互いに軽く会釈をする。
数年前より白髪が多くなった髪に深い緑色をしたベレー帽を被ったマスターがケトルに手を伸ばしている。その様子を眺め、どの豆にしようかとマスターの背後の戸棚に視線を向けていると、何となく視線を感じた。探るような、それでいて好意に近い何かを孕んだ視線。
ふい、と左側に視線を落とすと、長身の男性の膝に抱えられている子どもが慌てたように男性のお腹の辺りに顔をうずめた。ふわふわとした細めの黒髪が耳下で纏められている。ぱっと見、年少さんくらいの女の子。
(……人見知りする時期、かな)
このくらいの時分は本能的な影響で人見知りが激しくなる。親以外の人間に対して警戒心が強くなる年齢。自分にとって目の前の人は敵か味方かと思案する、動物特有の行動だ。
「すみません。最近人見知りが激しくて」
「いえいえ。仕方ないですよ、このくらいの年頃は」
長身の男性が申し訳なさそうに整えられた眉を下げ肩を落とす。その仕草に私は首を横に振り、全く気にしていないと主張した。彼と私が会話をしているのを確認した女の子が、彼のお腹にうずめたままの顔をそっとこちらに向けているのを視界の端で捉える。
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