1.苦さを探して

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「……うん。ばらぐみなの。もーすぐ、よんさい」  たどたどしい返答だけれど、ファーストコンタクトに比べ警戒心が薄れているように思える。どうやら彼女の中で私は悪い人ではないという認識をしたらしい。 「ん、よく出来ました。……世の(ことわり)()に、花が香るの()と書きます。妻の名前を使った名前をマスターが名付けてくれまして」  男性が満足そうに微笑み、愛おしそうに理香ちゃんの柔らかな髪を撫でた。この店に訪れる客を自分の家族のように思っているマスターならではのエピソード。  ある目的のために意図的に失恋を重ねている私には決して訪れないであろう、幸福の証。視界が虚無感で滲んでしまう前に、顔に笑顔を貼り付けた。 「そうなんですか。いいお名前ですね」 「だろう? 俺も我ながらいい名前付けたなと思うぜ」  カウンターの内側から得意げにマスターが声を上げた。その様子に苦笑していると、不意に、ブーッと鈍い音がした。音の発生源はカウンターに置いてあった黒いスマートフォン。男性が震えるそれに手を伸ばしていく。  彼と理香ちゃんの目の前には、コーヒーが注がれている陶磁器製のコーヒーカップと、鮮やかなオレンジ色をした液体が入ったグラスが置いてあった。 (……そういえば、初めて来たときに見せてもらったメニュー表に書いてあったなぁ)  もうすっかりこの店の常連になってしまいメニュー表など久しく目にしたことはないが、5年前にこの店に初めて来店したとき、こうして子連れ客が訪れることを歓迎するかのように子ども向けの飲み物もメニューに記してあったような気がする。  カウンター席に座った客とカウンターの内側に立つマスターの視線が平衡になるような、配慮のある構造にしてあるこの店内。数年前にも、出入口の扉に子供用のドアノブストッパーが取り付けられた。それらも全てマスターの細かい心配りなのだろう。 「マスター。チカがランチ終わったって言ってっから、迎えに行く」  スマートフォンに視線を落としていた男性がチノパンのポケットから財布を取り出しながら声を上げた。先ほど聞いた理香ちゃんの名付けエピソードから察するに、「チカ」というのがきっと彼の奥さん、すなわち理香ちゃんの母親のこと。 「おぉ、そうか。っつうか、今日はチカちゃん何事だったんだ? お前が身重のあの子をひとりにするなんざ久しぶりだろう」  マスターが彼らの目の前に置いてあるカップを引こうと腕を伸ばしながら代金を口にした。
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