25.夕暮れ時の薄明光線(マスター視点)

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「でもな。俺が自分の店でくっついていく奴らを見てて思うのは、『幸せ』っつうのは『不幸じゃない』ことじゃねぇで、『ふたりで乗り越えるのが楽しい不幸』のことなんだと思うんだ。この意味、わかるか?」  火を灯した煙草をふたたび咥え、無言のままテーブルの上にパタパタと涙を落とす千歳の返答を待つ。天井から下がる照明の光が紫煙の行方をゆらゆらと照らしている。  俺は今この瞬間、この問いに千歳の答えは出なくていい、とも思っている。やよいにもいつも口を酸っぱくして言っているが、大切な答えこそ焦ってはならないのだ。 「……今の……僕、には……わからない」  長い長い沈黙ののちに、引き攣れるような声で千歳が導き出した答え。『今の』というその答えにふっと目尻を下げる。何かを掴みかけている自分の()()。ぐちゃぐちゃに絡まってしまった糸の端先がゆっくりと引き出されていく様子に、もう大丈夫だと安堵した。 「それでいい。今はじっくり考えろ。……大切な答えはすぐには出せねぇ。焦らないことだ」  手にした煙草を灰皿に押し付け、テーブル上に出したメニュー表をゆっくりと開く。そして、にやりと笑みを浮かべながら緩く握った拳の小指だけをテーブルに差し出した。 「お前、送り狼にならねぇって約束、破ったからな。罰としてもうひとつ俺と約束しろ」  俺の言葉に、千歳は緩慢な動作で顔を上げた。天井から差し込む黄みがかった光が千歳の頬に浮かぶ涙の筋を照らす。 「もう誰も傷付けんな。やよいだけじゃねぇ、自分自身もだ。自分を傷つける権利はお前自身にもねぇ。これを忘れない。約束、だ」  千歳は差し出された小指に視線を落とし、しばらくまた考え込むように俺の指先を見つめる。 「…………約束、する」  今度はそこまで長くない沈黙のあと、ゆっくりと。千歳は目の前に差し出された小指に、自分の小指を絡めていく。そんな千歳の表情をじっと見つめ、吐息を吐き出しながらゆるりと小指を解いた。 「じゃ、それの一環な。なんか食おう。人間、腹が減っては生きられねぇからな。食わねぇっつうのはナシな。自分を傷付けるなといったろ?」  俺は開いたメニュー表をテーブル上に並べながらニヤリと笑みを浮かべた。その表情を見遣った千歳は、ただ一言。「なんだそれ」と吐息を零し、また一筋の涙を落としながらくしゃりと笑った。
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