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「あたしは『諦める』ということをしたくないんです。でも、人生の中で何かを『諦める』選択をすべき瞬間も、往々にしてあると思っています」
「……」
艶めいたワインレッドの唇から紡がれる相反する言葉。一回り下の女性から飛び出てきたとはおよそ思えない、哲学的な言葉に私は息を飲んだ。意思の強い黒々とした瞳が困ったように緩やかに細められる。
「あたしの生家は家業をしていて。あたしは3人姉妹の長女だったので、幼い頃から後継ぎとして育てられました。顔出しをしないのは、生家に迷惑をかけないことが父から厳命されたデビューの条件だったからです」
「そのために……SPまで雇っていらっしゃる、と」
「はい。彼は父が手配したSPなんです。プライベートまで監視されていていろいろ口うるさいので、ほんっとうに鬱陶しいと思っちゃいますけどね」
悪戯っぽく微笑むAliceさんの後ろに控えたぴっしりとしたスーツの男性が、ごほんとわざとらしく咳き込んだ。憮然たる面持ちの彼の瞳が剣呑な光を宿し、じとりとAliceさんを見つめている。その視線を感じ取ったAliceさんはふたたび困ったように肩を竦め、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……1つ下、双子の妹たちはパテシエやデザイナーという夢を追い大学や専門学校に進学して羽ばたいていっているのに、あたしの歌手になりたいという夢は親から否定され地元に残り後継ぎをすることが定められて……。お恥ずかしながら、妹ふたりに恨みつらみの感情も、もちろんありました。短大を卒業する間際、20年間努力して『小説家』としてデビューされた先生の記事を拝読し、ひたすら夢を追い続けて努力されてきた先生のお姿に、うじうじと燻っていたこれまでのあたしを恥ずかしく思いました。インターネットが発達した今はデビューの門戸も昔に比べてかなり大きく開かれていて、今からだって夢を追いかけることはできるのだと勇気をいただきました。過去を悔い、恨み、変にくすぶらず、うずくまらず、真っ直ぐに生きていきたい、と。だからこそ……『諦める』ということをしたくない」
「だから……『復讐』。これまで『諦めてきた』人生を『打ち砕く』ための、『復讐』」
「そう! そうなんです。『諦める』って、出来たはずの選択を自ら捨て去るってことですよね。本当は出来たはずだけど、『諦めた』……なんか負け惜しみのようでカッコ悪いって思いません?」
「……た、しかに」
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