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ふたたび小さくため息を落とせば、思考にちらちらと千歳のくしゃりとした笑顔が浮かぶ。今は彼のことを考えたくはない。
(……そうも、言ってられないのだけど、ね……)
オフィスビルを目指して歩きながら自嘲気味に肩を落とし、鞄の外ポケットから引き出したスマートフォンにイヤホンを繋げる。音声アプリを開き、そっと再生ボタンをタップすれば。
『私どもの仕事は全て『個人』に帰着すると考えています、と、先ほどお話ししましたよね。僕はその概念を父の背中から受け取ったのです』
耳元で流れる、千歳の声。ぎゅう、と、胸の奥が締め付けられる。Ryuさんのインタビュー記事を起こし、初稿として今朝編集長に回した。次は、千歳のインタビュー記事を起こす番なのだ。取材対象者の声で頭をいっぱいにして文章を書くという自分で定めたルーティンを恨みそうになる。
コツコツとヒールの音を響かせながらオフィス街を歩く。業務に追われ足早に歩く人たちの中、足取りが重い私。人生の縮図みたいだ、と小さく心の中で呟いた。
私は何をするにも迷って、立ち止まってばかりだ。数多の選択を重ね、普通のスピードで人生を歩いていく人たちの中、スローペースでのろのろと歩いている私。流されて、諦めて生きてきた人生の代償なのだろうか。
そんなことを考えていると――――唐突に。
「鷹、城さん」
背後から、僅かばかり強い力で腕を掴まれた。びくりと身体が揺れる。誰かに呼び止められたと理解するまでに数秒の時を要した。誰だろうかと恐る恐る振り返ると、そこには。
「……えっと……靏田、さん?」
走ってきたのだろうか、額に汗の玉を浮かべ、肩で息をする千歳の秘書である靏田さんがそこにいた。数週間前に顔を合わせた時は穏やかだった彼の表情。だというのに、今は眉間に皴を寄せ、厳しさをみせた表情を浮かべている。
「ど……う、されたのですか」
差し迫った彼の表情。掴まれたままの腕は痛みさえ覚える強さ。なにが起きたか把握できないままその場に立ちすくんでいると、トン、トン、と、軽やかな革靴の音と、渋みのある声色が耳朶を打った。
「初めまして、鷹城さん。千歳の父の――景元千耀、です」
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