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コハルの弟
跪いたまま耳を塞ぎ固く目を閉じた。この世界のなんの音も聞きたくなかった。耳に残ったコハルの声、脳内を震わすすべての残響をかき消したかった。僕はただ叫び続けた。
なぜすぐに走らなかったのだ。
ホームの下には必ず待避所があるのに、なぜそれを大声で指示できなかったのだ。思い浮かばなかったなんて言い訳にもならない。すべての責任は自分にある。
「見ないで! お願いだから誰にも見せないで!」母子と駅員さんに向けて僕は叫び声をあげた。
『弟を探しに行くの』コハルは流れる車窓を見ていた。
弟なんていないじゃん。そう言いかけた僕の記憶の隅で、コハルの後ろで気後れしたように佇む少年の姿がふいに浮んだ。
あれはいつのころだったろう。その姿は、幼稚園児ぐらいに感じられた。
『いなくなっちゃったんだよ』
『いつ?』
『幼稚園の頃。あたしたちが小学二年だったかな』
その答えに僕は指を折った。八年前。僕は返す言葉をもたなかった。
『マー君なんだよ』
『なにが?』
『最後に弟を見たの』
『ウソだ……』
そんなこと……僕はすっかり忘れていた。いや、そもそもそれは本当の話だろうか。
『どこに隠したの?』
『隠すわけないじゃん』
僕はそれ以上突っ込めなかった。車窓の向こうを見つめるコハルの横顔が、寂しそうだったから。
コハルは、弟の名を呼んでホームを走ったのかもしれなかった。
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