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この扉を、わたしが開くのは初めてだ。
「うっ、」
中は薄暗く、ものすごい臭いが立ち込めていた。食べ物が腐ったような臭い、それと血や汗の臭い。ゴミが山のように積み上げられたその真ん中には、ドーナツの穴のように整えられた空間があって、そこにひとりの女性が座らされている。長い伸び放題の髪の毛と、うつろに淀んだ目。
彼女は床に座らされて、部屋の中心をどかんと貫いている金属のポールに腕を組まされ、手状でそこに繋がれていた。両足はなにもつながっていないが、美脚というには過剰なほど痩せて、細くなってしまっていた。
「こんにちは」
目があったので、ひとまず挨拶をすると、彼女はまるで獣のように、ゔーっと唸り声を上げた。
「もう大丈夫。いま、ここから出してあげるからね」
わたしは、手にした鍵の束を彼女に見せた。
◯
この人は、わたしの姉の中学の時のクラスメイトらしい。ということはわたしより4つ年上、いま19歳だ。実に6年間も、この倉庫で監禁されていたことになる。
姉はもう、まともに話せるような状態じゃない……そもそも面会すら許してもらえていないので、どうして彼女を誘拐したのか、どうして監禁していたのか、その理由はもはや知る由もない。ともかくわたしは、姉が彼女をここに監禁していたと言うことを知り、部屋から鍵束を見つけ出して、彼女を解放するべくここにやってきたのだ。
「これかな?」
鍵穴には入るが、回らない。
「こっちは?」
そもそも形が合わない。
「これは?」
鍵は回るけど、錠は開かない。
この鍵束には数十本の鍵があって、そのうちのどれが手錠の鍵なのか、見た目ではわからない。そもそも、回す方向や、差し込む向きもわからないのだ。ひとつひとつ、確かめてみるしかない。
「あの、あなた、お名前は?」
わたしは鍵を試すのに疲れて、休憩がてら、ずっと唸り声をあげている彼女に話しかけてみた。
「お名前。答えられますか?」
「カレン」
掠れてはいたけれど、意外とはっきりとした答えが返ってきた。そうか、カレンさんというのか。よくみると、やつれてはいるけれどすごく美人だ。化粧とか、スキンケアではごまかせない、骨格からして整っている感じがする。
「ごめんなさい、あなたに酷いことをして。でも、もう大丈夫ですから。この手錠を外して、あなたを助けてあげますからね」
しかし、なかなか鍵は開かない。
もしかして、この鍵束には、手錠の鍵はないのだろうか? じゃあこの大量の鍵はなんのために?
そしてとうとう最後のひとつまで試してみたが、結局手錠は開かなかった。
「おかしいな。どうしてだ」
すると、カレンさんが突然激しく暴れ出した。体を激しく前後に揺すぶって、ガチャンガチャンと鎖がポールにぶつかる音が響いた。
「ふーぅ! ゔぅーっ!」
「ごめんなさい、落ち着いて」
だけどこの人、ものすごく衰弱しているので、年下の女であるわたしにも簡単に押さえ込むことができた。
なんとかして落ち着かせると、わたしはカレンの顔をちゃんと覗き込んだ。
「あきらめないから。あなたを必ずここから助けてあげるから。お姉ちゃんのしたことは、許されることじゃない。でも大丈夫、もうお姉ちゃんはここには来ないから。わたしは、あなたの味方だから」
「ナオ、ナオ……!」
「ナオ?」
奈緒とはわたしのお姉ちゃんのことだ。
カレンは、わたしにむかって飛びかからんばかりの勢いで、お姉ちゃんの名前を呼び続ける。
「違うよ。わたしはナオじゃないよ」
「ぅあーああぁあ」
「なに、どうしたの?」
やたらに暴れるばかりでとても怖い。
「また、鍵を探してくるからね」
わたしは入り口の鉄扉を閉じ、厳重に鍵をかけた。
◯
ここに警察の捜査が及ぶ気配はない。
とても寂れた山の中にあるし、その山の中でも、草木で覆われて隠れたトンネルの、さらに奥にあるから、たまたま通りがかった人が見つけるということもない。
「おはよー、カレン」
今日もお姉ちゃんの部屋から、何本か鍵を見つけた。カレンはわたしを見ると、笑顔を見せてくれるようになってきた。
だいぶ警戒心を解いてくれているみたいだ。
「今日こそ外に出られるといいね」
「おはよー!」
「はい、おはよーう。挨拶できて偉いね〜」
しかし、お姉ちゃんめ。部屋の中に何百本の鍵を隠しているんだろう。今日は机の上から三番めの引き出しの二重底の下にあった。その前は椅子のキャスターの5つの車輪の中にそれぞれ分解して隠してあった。その前は不揃いなルービックキューブの中、その前は下着入れのブラの中、その前は、その前は、その前は……
「うぅーう!」
「はいはい、やってみるね」
だけど、今日も手錠の鍵はなかった。
すべて合わなかったのだ。
「うーん、残念だね。じゃ、今日は体を洗ってあげるから。はい、服脱いで」
「あー」
「あーじゃないの、汚いままだと外に出られても嫌な顔されちゃうよ」
カレンは、体を拭かれたりするのを嫌がる。だけどこの臭いは我慢できないので、少し前から無理やりわたしが綺麗にしている。
手錠で後ろ手に縛られているので、服を完全に脱がせることはできない。だから服を少しあげて、タオルで身体を拭いてやるくらいしかない。
「いゃーだ! やぁーだぁ!」
「嫌じゃないの」
しかしこの人、本当にスタイルがいい。
ガリガリに痩せてしまっている以外は完璧に均整がとれているスタイルだ。ミロのヴィーナスみたいだ。
ヴィーナス、そういえば、あの像も腕がなかった。いまのカレンも似たようなものかも知れない。
「ナオ、ナオ」
この人はいつまで経ってもわたしのことを「ナオ」とお姉ちゃんの名前で呼ぶ。そんなに似てるかな。
「ナオじゃないよ〜」
「ナオ〜」
「違うよ〜」
体を拭いたら髪も洗う。
バケツに汲んできた水で髪を濡らし、シャンプーで頭皮をよくマッサージした後に泡を流し、トリートメントもなじませる。
しかしこの人、本当に髪の毛が綺麗だ。最初に見た時はボサボサの伸び放題だったけど、数回洗っただけでつやつやになった。癖もない。しっかりしてる。
「ごはんだよ〜」
パンやおかゆのような、飲み込みやすくエネルギーになりやすいものを食べさせている。当然手が使えないので、レンゲで食べさせたりしている。
「おいしい?」
「おいしい」
「おいしいか。そうかー」
といっても、この人は何を食べても「おいしい」としか言わないので、もしかしたら「おいしい」以外に、ご飯を食べた時にいう言葉を知らないのかもしれない。でも嫌がって吐いたりはしないので、本当においしいのかもしれないが。
「じゃ、歯磨きしようね」
もちろん手が使えないと歯は磨けないので、わたしがブラシで磨いている。
「うう〜」
「なに、おトイレ?」
当然トイレには行けないので、わたしが桶を作ってそこにさせている。桶には乾いた砂を敷き詰めて、処理しやすくしている。
「さて。それじゃまたくるね」
「ううー、ナオ」
「ナオじゃないよ」
「ナオ、ナオ」
「も〜」
ほんとは嫌だけど、カレンは帰り際によくキスをせがむ。ほんとは嫌だけど、断るとものすごく暴れるので、わたしはイヤイヤやっている。……実はファーストキスも、カレンにあげてしまった。
「はい」
「ん……」
女の子同士でキスするなんて、気持ち悪い。しかも、妙にエロいキスをしてくる。舌を口の中に入れてきて、絡ませてくる。正直吐きそうだ。でも、カレンのためだと思って我慢してる。
「んん……はぁっ、ナオ……」
「ん……」
キスしながら、時々、お姉ちゃんの名前を呼ぶ。カレンは監禁されている間、お姉ちゃんとこういうことをしていたのだろうか。いったい二人に何があったのか……
それはもう知ることはできない。
この間、お姉ちゃんが死んだという知らせがあった。なんでも入院中に突然暴れ出し、病院の窓ガラスをぶち破って飛び出したのだそうだ。病院の5階の窓から……下は車が通る舗装されたアスファルトの道。そこに叩きつけられたお姉ちゃんは、当然即死だったとか。
もうお姉ちゃんのことはよくわからないので、わたしは考えることはやめていた。だけど、カレンがここまでお姉ちゃんに執着する理由は、少し気になる。
「はい、おしまい!」
カレンを引き離して、わたしは立ち上がった。
「また今度ね。新しい鍵、もってくるからね」
一度使った鍵は、持ち帰って「あれ? この鍵ってもう試したっけ?」とならないように、ここに置いていっている。
カレンの目に届かないところにバケツを置いて、そこに次々と放り込んでいくのだ。いつの間にかバケツは鍵でいっぱいになっていた。
「ばいばい」
「はーい、ばいばい」
そしてわたしは今日も扉を閉め、鍵をかける。
またカレンのための鍵を探さなくちゃ。その前に、早く口をゆすぎたい。
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