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秀才と天才
試験が近い。ピアノを夏那に教えてから一ヶ月が経った。
夏那は急激にピアノが上達していた。常人なら一ヶ月でこんなに上手くなるはずがない。夏那には才能がある。きっと彼女が小さい頃から良い指導者に指導してもらっていれば、相当有名な奏者になっていただろう。七海は夏那の演奏を聞いてそう思う。
「どうだった? うまく弾けてた?」
「おう、だいぶ上手くなった」
「よっしゃーーー!!」
課題曲の分析からはじめて、毎日空いた時間はひたすら曲を弾いていた。たった一ヶ月で普通に聞けるくらいには曲を仕上げてきたのだ。
七海は大したものだと素直に思った。評価もS評価までは行かないが、B評価か運がよければA評価が貰えるかもしれない。
「このまま行けば試験合格ラインだな」
「まじ!? やっべーすげー!!」
「あとはペア探しか」
実技試験は二人以上で参加が条件。課題曲ばかりに気を取られていては当日、ペア無しで失格という事態になりかねない。実際にギリギリまでペアが決まらず、失格になった生徒は過去に多数いた。
「あ、それは大丈夫! クラスの奴に一緒に試験受けようって誘われたんだ」
「……そうか。(なんだろう。なんかモヤモヤする)」
七海は胸の辺りから喉の辺りまでが、無性にイガイガする感じを覚えた。それはひどく嫌な気持ちで、七海は不快感に顔をしかめる。
「七海?」
名前を呼ばれて夏那を見る。彼女は不思議そうに七海を見ていたが、やがて練習だと言って笑顔で楽譜を開いた。それを見て胸のモヤモヤは霧散していった。
試験一週間まえの昼休み、七海の周りが一層煩くなった。まだペアを組めていない彼は格好の的らしい。
夏那はいま、ペアを組んだ生徒と合わせて練習していて、昼休みも放課後も旧音楽室には来ていない。たまに廊下でペアらしき男と歩いているのを見る。
それを見るたび、七海の胸の内にはまたあのモヤモヤが溜まった。周りの煩さとの相乗効果で、酷く気分が悪かった。眉根を寄せていると、遠巻きに見ていた集団から一人、男子生徒が近づいて、七海に話しかけてきた。
「やぁ、七海くん」
「誰だあんた」
「やだなぁ、僕は君と同じクラスじゃないか」
男子生徒は芝居がかった仕草で肩をすくめた。周りに煩わしいほど群がっていた生徒らはいつの間にか遠巻きに七海の様子を伺っていた。みんな顔をしかめており、七海は首を傾げた。
「ねぇ七海くん。君、まだ組む相手がいないんだって?」
「だったら何だ」
男子生徒は笑みをたたえた顔を歪める。
「皆に言い寄られるの、そろそろ煩わしいと思ってね。もしよかったら僕と組まないかい?」
「いや、俺は……」
七海は目線を彷徨わせる。
頭には、ただ一人の姿が浮かんでいた。
「おや、もう君には組みたい相手がいるのかな?」
「……」
組みたい相手と聞いて、真っ先に夏那が思い浮かんだ。しかし夏那にはすでにペアがいる。七海じゃない生徒。七海の知らない生徒。
――嗚呼、なんだ、そういう事か。
七海はここに来てようやく自分の胸のモヤモヤの原因がわかった。
七海は、夏那と試験に臨みたかったのだ。彼は無意識に彼女に誘われるのを待っていた。こんなにギリギリまでペアを決めなかったのは誘われるのを待っていたから。
夏那は初めて出来た"友達"だったから。自分からペアになりたいと思った相手は夏那しかいなかった。
だが、七海は気づくのが遅すぎた。いくら待ったって、彼女にはもう他のペアがいる。もう、七海の手を取ることはない。
――なら、待っている意味なんて、ない。
「……わかった。ペアになる」
「ふ、試験まであと一週間、お互い一緒に頑張ろうね」
※※※
お互い別々の相手とペアを組んで一週間、七海は夏那に全く会わないまま、試験の日を迎えた。
七海はこの一週間、どんなに合わせて練習しても納得のいく演奏が出来なかった。向こうは完璧だと思っているようだが、この演奏は二重奏なのにまるで一人で演奏してるみたいだった。
「もうすぐだね七海くん。緊張してるのかい? この僕がいるんだからきっとこの試験もS評価に違いないよ。だから安心して?」
「ソオデスカ。アザッス」
こいつのこの無駄な自信はどこからわいて来るんだ、と黙ったまま前を向く。否定されなかったことに気を良くしたのか、男子生徒はまぁ調子のいい事を喋る喋る。こういうのは聞き流すのがいちばんだと、尊敬する大先輩が言っていたのを、七海はぼんやりとしながら思い出していた。
「……それに、僕らの前には"ピエロ"がいるからね」
「なんだ?」
「いいや、何でもないよ? それよりほら、これの次が僕らの番だから。前の人の演奏聴こう?」
七海達の演奏は夏那の演奏の後だった。
(あいつは、夏那はピアノをうまく弾けるだろうか。魔力を込められるだろうか)
七海の思考が散漫になる。自分の演奏より緊張している自分に苦笑いをした。
ステージの上に夏那が出てくる。しかし、何か様子が変だった。夏那が出てきたのに、ペアの生徒が一向に出て来ない。審査員の教師がもう一人を連れてくるよう催促していた。夏那はステージ上で忙しなく辺りを見回していた。
そしてある一点をみて、目を見開く。
夏那の見る先には夏那を試験に誘った生徒がいた。その生徒は何でもないという顔をして、観客席に優雅に座っていた。七海は何が起きてるかを瞬時に悟った。
試験は二人で出なければ失格。あの生徒がペアとして出なければ夏那は失格になってしまう。夏那は、あの生徒に裏切られたのだ。
「あっれれー? あの子ってもしかして楽器の弾けない劣等性ちゃんじゃないかな? 一緒に組んでくれる人がいないからって一人で出てきちゃ駄目じゃないか!」
七海の隣からホール全体に聞こえるような声量で嘲笑を交えた野次がとぶ。それにつられて、今度はホール全体から野次が聞こえてきていた。
「七海くんも大変だっただろう? あんな場違いの勘違い女に付き合わされて……天才の道楽だって理解もしない奴の世話なんて、君には相応しくない。次からは付き合う相手を選ぶことだね」
七海はこの台詞を聞いて、思いきり顔を顰めた。
(嗚呼、こいつに誘われた時の、周囲のあの反応の意味が分かった。皆はこいつが平気で他人をコケ下ろす奴だと知っていたんだろう。そりゃあ遠巻きにしたくもなる)
七海はこう思うと同時に仮説を立てた。もしかしたら夏那とペアを組んだ男子生徒と、この隣で夏那を見下している男はグルではないかと。
隣の男が自分とペアを組むために。また演奏が自分の番になった時、夏那の失敗の後で自分の演奏をより良く見せるために、こうなるよう仕組んだのではないだろうかと。
大勢の前で一人の人間の人生を潰しかねない事をするような男だ。ありえない話ではなかった。
七海の腹の底から、轟々と燃える炎の様な激情が迫り上がった。
『俺の天才のレッテルしか見ない奴らも、夏那をコケにする奴らも―――』
どいつもこいつもクソくらえと思っていた七海だったが、次の瞬間には心は驚くほど凪いでいた。
七海はすっくと立ち上がる。
泣き出しそうな夏那をただ真っ直ぐ見つめて、大きく大きく息を吸い込み。
ホール内のどの野次より、誰よりも大きな声で叫んだ。
「夏那ーーーッ!! 歌えーーーッッ!!!」
七海は叫んで少しスッキリすると、ペアを組んでいた生徒の制止の声を無視し、ステージに向かって走り出した。
心臓が血を送り出す音が間近に聞こえる。走るスピードが上がっていく。気分が高揚していくのがわかる。今さっきの凪いでいた時とはまるで真逆の心境だった。
本当は、最初からこうしたかった。七海はずっと前からこうしたかったのだ。
七海は夏那の音楽が好きだった。ヘタクソで、すぐ跳ねるピアノの音も、泣けてきさえするあの歌声も。夏那と演奏するのがどうしようもなく好きだった。
(あいつがバカみたいに笑って音楽を奏でられるのなら、俺は何度だってお前の為に楽器を弾く。天才とか、周りの評価は最早どうでも良い。お前の為なら――何度だって、お前に俺の演奏をくれてやる)
七海はステージに飛び乗って、夏那の前に立つ。
「七海!? なんで──」
「俺はピアノを弾く。お前は何も気にせず歌え」
「で、でもっ……!」
「信じろ」
唖然とする夏那を背に、七海はピアノの前に座る。
――弾きたい曲は、もう既に決まっていた。
心を落ち着け、ありったけの集中力と丁寧を手に。
ピアノの前奏が始まると、夏那は驚いた顔をする。そして意を決したように前を向き、歌いだす。
会場が一気に静かになり、誰もが歌う夏那を見ている。透き通る様な声が広く響き、反響する。温かくて優しい、日向の温もりのような魔力がホール内に満ちてゆくのを、七海は体全体で感じていた。そして思ったのだ。
――嗚呼、俺は違った。
天才は俺ではなかった。
俺は天才なんかじゃなくって、他人より練習量が多くて上手くなっただけの、ただの秀才だったのだ。
本当の天才とはきっと、夏那のような奴の事を言うんだ。
そこにはもう、"天才"を嘆く七海凪雄はいなかった。
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