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Birthday
「――――まだ、ねる?ねーね、なってたよ」
とんでもなく近い距離で吐息と声が俺の鼻先を擽る。
覚醒しきらないまどろみの中、それでも普段ならありえないそんな状況に、俺は重い瞼を無理やりこじ開け霞む視界の焦点をゆっくりと合わせた。
――――――大きな目がキラキラ輝く、見たことのない、女。・・・オンナ?・・・・・・俺、昨夜・・誰か連れ込んだっけ・・・?
きゃふッ、と情けない鳴き声がし、そこでようやく思考が追いついた。
そういや、拾ったんだったな。犬と・・・ガキ。
「――なってた・・・?」
からからに乾いた声で聞き返せば、ガキはうん、と頷き、それから視線だけをベッドサイドのガラステーブルに向けた。
「あー・・・、携帯か・・・。悪ぃ、それ、取って」
もう一度うん、と楽しげに頷いて、ガキは犬を抱いたまま携帯に手を伸ばし、むぎゅ、と握ってそれを俺に満面の笑みを浮かべ手渡してくる。
「―――サンキュ」
そう言って携帯を受け取り、もう一方の手で寝癖で飛び跳ねたままの長い髪をくしゃと撫でてやる。
ガキは嬉しそうにニッと白い歯を出して笑い、もっと撫でろというように俺の手に頭をこすり付けてきた。まるでじゃれつく子犬のように。
――――もしかしたらこのガキ、抱いてる犬と一緒に育てられたってこと、ねぇよな・・・。
一瞬、どうしようもなくありえなくて怖ろしいことを想像してしまったけれど、そういえば、語彙は少ないが言葉が話せて理解できているんだから、人間として育てられたに決まってるだろうと、俺は自分に無理矢理気味に納得させた。
もう鳴り止んだ携帯を見ると、そこに表示されていたのは伴さんの自宅のナンバー。こんな朝早くに珍しいなと首を傾げつつも、隣で盛大に鳴ったガキの腹の音に驚いて、メシを食わせなきゃいけないってことに思い当たった俺は、手にした携帯を一旦放してガキを抱えあげた。
「腹減ったろ?おにぎりでも作ってやっから、ちょっと待ってろな」
「おにぎり・・・のり、まく?おしお、つける?」
「お前、おにぎり好きか?」
「すき!ばばと、おにぎりもって、こしあぶらとりにいったの、たのしかったよ!」
「・・・ばば?」
「ばばはね、ずぅーっととおいやまにいるよ。そこで、もーちゃんみつけたよ」
「・・・もー・・ちゃん?」
唐突に見え始めたガキの背景。
まず、ばばって誰だ?こいつのばあさんのことか?おにぎり持ってこしあぶらとるって・・・。つーか、こしあぶらって何?山ってどこの?そこで見つけたもーちゃん・・・って、もしかしてこの犬のことか?牛柄っぽいからもーちゃんとか言わねぇだろうな・・・。
「もーちゃんはね、べごとにてる。ばばのうちに、いーっぱいいる」
・・・べご、って何だ。・・・わからん。このガキの言っている意味の半分も理解できないが、どうやらばあさんはここからだいぶ遠い山に住んでて、そこには“べご”とやらがたくさんいるってことはわかった。
でもそれだけだ。――――ああ、そういえば。
「・・・なぁ、お前、名前何て言うんだ?」
「なまえ?はく。ぼくももーちゃんも・・・かか、いないほうがいいって」
「かか・・・って・・・・・・母親のことだよな。――――なぁはく。今お前って年いくつ?」
「いくつ?・・・なに?」
「あー・・・はくは、今、何歳?・・・えーと・・・誕生日、いつ?」
「たんじょうび・・・、あっ!Birthday?」
これまた唐突に紡がれた、やけに発音の良い単語を聞き、俺は驚きすぐには答えを返せなかった。
もしかしたらほんの少し、どこか障害があるんじゃないかとそのカタコトっぽい口調で勝手な想像をしていたが、どうやらその考えは改めなければならないらしい。
障害ではなく、元々の言語が日本語じゃない所で過ごしていたとしたら―――英語圏での生活をしていた子なら、そりゃ日本語がカタコトになっていたって当たり前の話で。そしてガキをよくよく観察してみれば、ガリガリって言えば言い過ぎかもしれないが、決して健康的な体つきには見えない華奢なつくりで、血管が透けて見えるくらい肌は白い。―――生粋の、黄色人種とは言い難い肌の色だ。
ただし。病的に血色が悪く、全体的に青白くさえ見えるのが気にかかるが。
髪は後ろで括れるくらい長く、けれど手入れはしていないのか、ぱさぱさに乾燥していた。伸びきった前髪をかき上げ覗き込んだ表情は、驚くほどに整っていた。動くたびぱさりと鳴りそうな長い睫に縁取られた、澱みのない澄んだ琥はく色の瞳とかわいらしい小さな鼻に、つんと上向きの小ぶりな唇は薄紅色で、白い肌に艶めいて映える。ぼく、というから性別は間違いなく男なのだろう。・・というか、着替えさせた際にそれは俺も確認済みなのだが、それでも疑いたくなるほどに、圧倒的に女性寄りの中性的な見てくれだった。
「・・・ね・・ねー・・・ねーぇっ!」
行きつく先を見失ったままぼんやりと考え込んでいた俺を恨めしそうに見上げて、はくは小さな声で「たんじょうび、Birthday、ちがう?」と問う。
俺は慌てて首を横に振り、「悪ぃ、悪ぃ。それであってるよ」と苦く笑って視線を合わせ、はくはホッとしたように笑み、それから右手の掌を広げ、左手の指を3本たてた。俺はハッとしてカレンダーを見、そして絶句する。―――――奇しくも、それは、今日だったから。
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