居酒屋 裏ばなし

1/1
25人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

居酒屋 裏ばなし

 雑居ビルが密集する下町の狭間に一軒の飲み屋があった。  その名も『居酒屋 裏ばなし』。  建屋は木造モルタルの瓦屋根。ともすると見過ごしてしまいそうになるほど、ひっそりとした佇まいである。  というのも、昼時ともなれば、食事に出てきたサラリーマンが、飲み屋が出す比較的リーズナブルなランチを求めて、裏通りまで足を伸ばす。しかしながら、この居酒屋にかぎっては、戸はぴっしりと閉め、まるで開かずの間のごとく沈黙したまま。通りすがりの人間は、店はずいぶん前から廃業していて、空き家であるとさえ勘違いするほどであった。  店にがかかるのは、宵闇が深くなったころの、人通りが少なくなった八時を回ってからだ。板前である店主が、二階の寝床から出てきて、ごそごそと店を開ける。  そんな具合だから客のほとんどがご近所の常連ばかり。酒もさることながら、訊き上手の店主と世間話をしたくてやってくるのだった。  今宵もアロハシャツを身につけた男が、ふらりとやってきて、のれんをくぐった。 「こんばんはーー」  いつもなら店主が板場で包丁を握っているはずだった。だが、今宵はどういうわけか店主の姿は見えない。どうやら店を開けっ放しで、出かけてしまっているようだった。 「なんや、留守かいな。ーーさては、さては、どこぞに行って、油でも売っているんやろうか。ーーしゃぁない。ご主人が帰ってくるまで、ちっと、ここで休ませてもらおうか。ーーほな失礼します」  アロハシャツの男はカウンター席にどっかりと腰をおろした。  男の名前は裏野タクヤ。この店の常連客だった。つい先日のことだが、この男、マンホールに落ちて一度死んでいる。小舟に乗って三途の川を渡っている最中に、その小舟からも落ちて、なんと飢え死に寸前のヤモリに転生するという、魔訶不思議(まかふしぎ)体験の持ち主だった。  紆余曲折の末、本来の自分に戻ったタクヤであったが、身代わりとして火葬場で焼かれたのがヤモリであった。ヤモリの恨みを買い祟られたのか、はたまた一度死んだことによる後遺症なのか、とした性格が、更に輪がかかったようにとなり、しゃべるのを止めると、うたた寝するようになってしまった。  そんな具合だから、することもなく、カウンターにただじっと座っているだけのタクヤは、早くも、うつらうつらとやりはじめた。  ほどなくしてーー  のれんの奥からなにやら不思議な声が聴こえてきた。  
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!