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楓汰に変な相談をしてから、楓汰は毎日遥香と一緒に帰るようになった。
練習以外の時間でも、楓汰は意識的に遥香と一緒に居るようにしているみたいで、私は常に平常心を保っていることが辛くなって来た。
遥香は楓汰と一緒に居ると、いつもより可愛い笑顔になって、纏う空気の温度が上がる。
あぁ、そうだよね。
好きになっちゃうよね。
だって、楓汰だもの。
辛いのに、遥香と仲良くする楓汰なんて見たくないのに、私の目は、私の意思とは関係なく、楓汰の姿を追ってしまう。
恋って、どうしてこんなに矛盾ばかりなの?
見たくないけど、見たい。
聞きたくないけど、聞きたい。
友達じゃ嫌なのに、友達でいたい。
気持ちを知って欲しいけど、バレたくは無い。
今日も、練習が終わると、二人は肩を並べて帰って行った。
「一緒に帰ろう。」と誘われたけど、先生と打ち合わせが有ると嘘をついて、二人、仲良く帰って行く背中を見送った。
手を振りながら、苦しくなって呼吸が出来なくなった。
その場から逃げる事も歩き出すことも出来ず、ただ二人から背を向ける事が精一杯だった。
二人の姿が視界から消えると、ようやく呼吸が出来るようになって、私は大げさなくらい深呼吸をした。
足りなくなっていた酸素が体中をめぐり、冷たくなっていた指先まで感覚が戻ってくると、抑え込んでいた感情にまで血が通った。
楓汰が好きだという思い。
遥香も楓汰が好きだと言う確信に近い予感。
二人の役はお互いに恋に落ちる間柄である事。
二人はとてもお似合いのカップルに見える事。
それは、私が演出家として望んだこと。
でも、もう、苦しくて苦しくて、見たくない。
大きく吐き出した呼吸は震えて、深く吐き出し過ぎて、クラクラした。
私はその場にしゃがみ込むと、震える呼吸を押え込むように両手で口を押えた。
そして、ギュッときつく目を瞑り、鼻の奥がツンとして、涙が出ようとしてくるのを力ずくで阻止した。
涙を止めた分、痛くて、切ない気持ちを少しでも体の外に出したくて、抑えた口から浅い呼吸を吐き出した。
「野々村?」
しゃがんだ私の頭にかけられたのは、北澤先生の心配そうな声だった。
「具合、悪いのか?」
呼びかけに応えず、うずくまっている私に先生は近づいて、様子を伺う。
私は声を出さずに、首だけ横に振る。
「じゃぁ、何でこんなとこでうずくまってるんだ。」
「大丈夫です。」
何とか絞りさせたのは、震えて、擦れた声で、自分が聞いても、とても大丈夫そうには思えないものだった。
「取り合えず、保健室に行こう。」
先生は私の両腕を取り力強く引き上げて立たせると、歩けるかどうか聞いた。
心が重たくて、足が動かない。
なんて、本音を言えるわけも無く、私は頷いて、重い脚を引きずるように動かした。
呼吸が浅かったせいか、軽い酸欠になっていたみたいで、数歩歩いたら、目の前が真っ暗になって、またその場にうずくまった。
私を支えるように、先生も同じように膝を折ると、優しく背中をさすってくれた。
「無理するな。」
なぜかその言葉に、痛くて痛くて悲鳴を上げていた心を優しく抱きしめられたように感じて、引っ込んだはずの涙が目の中いっぱいに溜まった。
「何の為に俺がいると思ってるんだ。苦しい時は苦しいって、みんなには言えなくても、俺には言え。」
体調の事だけを言っているのではないと、直ぐに分かって。
だから、なおさら、今の私に優しい言葉を掛けないで欲しいと思いながらも、その優しさがもっと欲しいと思った。
絶対に涙は見せたくないのに、こぼれ落ちそうな涙を止める方法が見つからない。
「苦しいです。」
震える声で、気持ちを吐き出したら、涙が一緒にこぼれ落ちた。
先生は背中をさすっていた手を、俯いている私の頭にのせると、ゆっくり撫でた。
「それでいいんだ。」
先生の手の温度が髪の毛から地肌に伝わり、苦しくて震えている私の心を温めてくれている様に感じた。
先生は私の手にハンカチを握らせると、少しの間、静かに見守った。
涙が止まるのを見計らって、私を立たせると、「少し話そうか。」と言って教室の方へと誘った。
「体は大丈夫?」
覗き込むように私の様子を確認すると、先生は小さな声でそう聞いた。
はい。
私は無言でそう頷くと、直ぐ近くにある先生の顔を見た。
表情は何も変わらない。
いつも私達を指導する北澤先生だ。
「じゃぁ、ここでいいな。」
教室の扉を開けると、近くの席に向かい合って座った。
「苦しいのは、演劇の事だけじゃなさそうだな。」
何の前置きも無く、本題を切り出す。
「俺は友達じゃ無い。教師だ。野々村が何を話しても、秘密にして欲しいことは、絶対に口外しないと約束する。
一人で抱え込み過ぎて、身動き取れなくなってしまう前に俺だけに吐き出してみればどうだ?
吐き出した言葉の分、心は軽くなる。」
何も言わなくても、先生は全て理解しているんじゃないかな?
涙と本音を見られてしまったのに、まだ全てを話す事はためらわれる。
なのに、ホンの少し吐き出した感情で、あんなに苦しかった心は少し楽になったのも、事実だった。
悪魔の誘惑のような先生の言葉に、私の迷いは懐柔されていく。
「泣いた事は誰にも言わないでください。」
「あぁ。」
「強くて、頼もしくて、弱音なんて吐かないのが、私なんです。だから…。」
「それ、野々村が自分にかけた暗示だろ。」
先生は少し厳しい口調で、私の言葉を遮った。
「暗示?」
「そう。少なくとも、強くて、頼もしくて、弱音なんて吐かない。なんて、俺は思ってないよ。」
「じゃぁ、どんな風に思ってるんですか。」
「ただの高校生。波野や山岡たちと変わりない、まだ17歳の高校生としか思ってない。」
それなら、弱くて、情けなくて、ドロドロとした嫌な私を見せてもいいんですか?
そんな私でも、今までと変わらずに接してくれるんですか?
心の葛藤を見透かしているような先生の視線に耐えられず、机の上で組んだ自分の手を見て、まだ迷う。
「野々村が描いている理想に自分を置いているのは悪い事だとは思わない。むしろ、凄いと思うよ。でも、こんな風に苦しむのなら、その苦しみを吐き出せる場所が必要だと思う。俺なら、その場所になれる。」
どうして、そんなに優しい声で、私が欲しい言葉を言うんですか?
私は最後の意地まで溶かされて、小さく震える声で話し出した。
「二人を見るのが辛いんです。遥香の恋をする気持ちが溢れ出て来るのを見たくないんです。楓汰が遥香を愛するシーンなんて台本から消したい。こんなこと思う時点で、演出家失格で。こんな私がみんなの前に立つのは申し訳なくて。」
「演出家だって人間だ。それに、野々村の感情は至極当たり前で、まっとうな感情だと思うよ。」
「でも、二人のお芝居を見ていられない。」
「それだけ、好きだって事だよ。」
核心を突かれた言葉に、思わず顔を上げて、先生を見た。
どうして?
どうして、そんなに優しい目で私を見るんですか。
どうして、隠しておきたい気持ちを引き出すんですか。
もう、隠す意味が無くなったじゃないですか。
「楓汰が好きなんです。でも、知られてくないんです。」
友達でいいから、仲間でいいから、側に居たい。
私の気持ちに気付かれて、気まずい関係にはなりたくない。
だから、私の中で完結するのをひたすら待っているのに。
終わるどころか、どんどん好きになって、どんどん欲望が変わっていって辛い。
私の心の体力が、そろそろ限界になっている事には、薄々気が付いていた。
「こんなに苦しんでるのに、今まで一人で抱え込んで、辛かったな。」
だから、先生。
私に優しい言葉をかけないで。
込み上げてくる震えが、涙腺に触れて、涙がこぼれた。
「俺の前では思いっきり泣いて、ため込んだ気持ちを吐き出せ。
そうして空けた心のスペースに、またモヤモヤした気持ちを詰め込むんだ。
それなら、溢れずに何とかやっていけるだろ。」
私はハンカチで目を押えながら、先生の言葉に何度も頷いた。
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