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六回表
相手チームのランナーで塁が埋まり、嫌な予感がし始めたその時、スマホが震えた。画面には見慣れた淡いオレンジのダリア――福のアイコンだ。
〈お疲れさま。仕事終わった?電話して大丈夫?〉
毎日一緒にいるし出張だって明日には終わるのに、わざわざ電話なんてどうしたのだろうと、一瞬胸に動揺が走った。
もしかして転勤の話がどこかから漏れた?いや、それにしては耳を垂れたうさぎの「オツカレ」スタンプは間が抜けた顔をしている。福は本気で怒っている時、絶対に絵文字もスタンプも挟まない。だからきっと何かあったというより、試合展開を見て私をからかいたくなったのだろう。
数秒でそこまで分析し、私はすぐに〈福もお疲れさま。ちょっと待ってて!〉と返信した。
ちょっと電話してくるね、と隣の絵梨に告げ、飲食店の連なるコンコースに出ると、緊迫した場面だからだろうか、人影はまばらだった。それでも邪魔にならないよう、私は隅のほうで通話ボタンを押した。
「もしもし福?どうしたの、寂しくなっちゃった?」
昼間の大路を真似して言うと、福はわざとらしく大きなため息をついた。
「試合が荒れ模様だから落ち込んでるんじゃないかと思って、心配してあげてたんですけど」
その時、場内で福がしたのを何倍にもしたようなため息が響いた。それが電話の向こうにも届いたのだろう、福が一瞬耳を澄ます気配がした。
「……やっぱり球場にいるな」
「それが成り行きでそういうことになっちゃってさ。でも序盤の大量得点は後輩のおかげかなあ」
「……後輩って?女?」
途端に声が硬くなり、正直私は戸惑った。もう付き合いも長いし、こんなことで?と思わないでもなかった。
「うん、出張で一緒だった後輩と二人だけど……」
「ふうん。私はまたファルコンズスタジアムに行くその時は環とって思ってたよ。でも環は違ったんだね。特別な場所だと思ってたのは私だけだったってことね」
「そんなことないけど、だって『スタジアム行かないの?』って言ってなかった?」
「後輩と、それも女の子となんて言ってない」
「いや、これは私が誘ったんじゃなくて、本当に不測の事態だったというか……」
「へえ、一緒に野球楽しめる後輩ができてよかったね。その子がいれば私なんかいなくてもへっちゃらだね」
最後に嫌味を効かせ、ブチッと電話は切れた。何度かけ直しても福はもう出なかった。メッセージを送っても既読にならず、仕方なく私は〈また連絡します〉と送ってスマホから顔を上げた。
席に戻ると、私の浮かない顔を見て絵梨も何かを察したようだった。
「あの、何かトラブルでも……?」
「後輩と二人で球場にいるって言ったら、ツレがへそ曲げちゃって」
いくら絵梨が相手でも普段はこんなことを明かしたりはしないのに、久しぶりの球場でやはりどこか心が無防備になっているのかもしれない。交際相手がいることをツッコまれるかと思っていたら、絵梨はため息をついた私を見て心配そうに眉を下げた。
「私が球場に来たいなんて言ったせいですよね」
「いやいや中原は悪くないよ。私が無神経すぎたんだよ」
「でも私なんか本当にただの後輩だし、そもそも女だし……。彼氏さんなんか勘違いされてません?」
「そうだよねえ……」
訂正するわけにも、説明するわけにもいかず、私はカップの底にほんの少し残ったビールを一気に飲み干した。ぬるくなったビールは苦みばかりが際立って、到底おいしいとは思えなかった。
空になったカップを認めたのか、最初の一杯の時とは別の売り子と目が合った。片手を上げて呼ぶと、笑顔の大きな彼女は新しいカップにサーバーからビールを注ぎ手渡してくれた。
「ありがとう」
ポニーテールに結んだ髪がどことなく昔の福を思い起こさせて、私は咄嗟に目を見てお礼を言った。彼女は一瞬目を見開き、すぐに花開くように笑った。思えば私も、たったそれだけのことでも丁寧に接してもらえると嬉しいものだった。
「またお待ちしてますね」
「これ飲んじゃったら、また次もお姉さん探します」
ぱあっと笑顔を弾けさせ、ぺこりと頭を下げると彼女はまた別の所へ呼ばれていった。キャップを飾っているオレンジの花がかすかに揺れ、私はまた昔を思い出した。
八年前、まだ福の髪に花はなかった。福がまだ新人だった頃、初めてこのスタジアムに来た時のことだった。福のラッキーはあの日から始まった。
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