六回裏

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六回裏

 八年前のあの日、試合は何とか五回まで続けることができた。ところが六回表に入った所で急に雨脚が強まり、結局そのまま雨天コールドになってしまった。  屋外にあるファルコンズスタジアムに慣れた地元のファンは、あらかじめ雨合羽と荷物を覆う大きめのビニールを持参していた。逆に丸腰の私たちは、頭の上でバケツをひっくり返されたような惨状だったけれど。  雨天コールドが決まった段階で屋内に避難するなり、仙台駅近くに戻って時間をつぶすなりしていれば、こんなことにはならなかった。でも私も福も、雨天時に行われる選手パフォーマンスをどうしても生で見てみたかったのだ。  まず各ベースにブルーシートを引き、選手がダイヤモンドを一周ベースランニングをする。選手によってはあえてリードを取り盗塁の真似事をしてみたり、そのサービス精神を楽しみにしているファンも多い。スライディングするたびシートに溜まった雨水が派手に飛び散り、ドーム球場では味わえない特別感があった。  そしてその後、グラウンドに出てきた選手たちが客席にサインボールを投げてくれる。  はるばる東京から来て、せっかくの試合が半分しか観られなかったのだからこのままでは勿体ない。そんな意見で一致していた私たちにとっては、こちらももちろん雨なんて関係なかった。とは言え、やはり試合が観たかったのも本音だったけれど。 「ごめんね、せっかく誘ったのに雨天コールドになっちゃった。私、雨女だからなあ」 「でも五回までは観れたんだもん、晴れ女と一緒でよかったでしょ?」 「あははたしかに。千紘さんにも感謝しないとな」  お土産買っていく?とふざけた私を福は軽く小突いた。  ベンチから出て外野スタンドに走ってきた選手に、福は大きく手を振り飛び跳ねた。何だかんだ照れが勝ってアピールできない私を軽々と越えていく。福といると落ち込む暇がない。私にはそんな彼女が眩しかった。  その時、外野スタンドで大きな歓声が上がった。私たちのいる外野自由席までボールが飛んできたのだ。よほどの強肩でなければ、外野の一番奥のこのエリアまでボールを届かせることなんかできない。それが背番号47だった。選手から投げられたサインボールを幸運にもキャッチし、福はすっかりファルコンズのファンになったようだった。  ずぶ濡れの私たちは帰る前にグッズショップへ寄った。私は大きめのマフラータオルとワンポイントでチームロゴが入ったポロシャツを買い、それに着替えた。このくらいなら東京に戻っても目立ちすぎないだろうと思ったのだ。  一方の福はその年限定の鮮やかな緑色のユニフォームに着替えていた。私が直前まで着ていたのとお揃いだ。この恰好で家まで歩くのだろうかと少し心配になっていると、福は得意げにくるりと回って見せた。ちらりと見えたのは、サインボールを投げてくれた背番号47。  ファン仲間ができて嬉しいはずなのに、なぜか胸にモヤモヤが広がっていく。一瞬顔を強ばらせた私に、はしゃいでいた福もけげんそうな顔をした。「福がファンになってくれて嬉しいな」と慌てて笑顔を張り付けると、福は困ったように笑った。当たり前だ、あまりにも不自然な態度だと私自身も自覚していたから。  その後、私たちはぎこちない雰囲気のまま、広場に設置されていた笹にめいめい願い事を書いた短冊を吊るし、球場を後にした。  あっという間の一日だった。帰りの夜行バスの車窓からカーテンの隙間を覗くと、仙台の街の光がどんどん遠ざかっていくのが見えた。天の川はあいにく見えなかったけれど、窓ガラスを伝う雨粒がキラキラ輝き、まるで星々の大河を一艘の舟で渡っているかのようだった。 「環、短冊に何書いた?」 「んー、来年は雨降りませんようにって」 「それは、来年も一緒に行こうってこと?」  焦った。  ――別に何の変哲もない友達同士の会話じゃないか。慌てるほうがどうかしている。  必死で自分にそう言い聞かせた。 「えーと、うん。そう思ってる。きっと一人で来てたら、例え雨降りじゃなかったとしてもここまで楽しくなかったと思うし」 「えへへ、そっか」  福はそう言ってはにかむと、チームのマスコットキャラがプリントされた大判のタオルで顔を覆った。アイマスクの代わりにするらしい。 「そういう福は何を書いたの?」 「私は――私のはないしょ」  あはは、とタオルの下で笑う声が耳もとで心地よく響いた。  たった一日だったけれど、胸が高揚して私はまだ寝つけそうになかった。その理由が初の仙台遠征にあったのか、それ以外にあったのかは考えないことにして、私はさらに福に話しかけた。 「私さあ、仙台で就職しよっかなあ」  何とはなしにそう言った瞬間、うとうとしていた福は弾かれたように身体を起こした。 「本気?」 「まあでも、知り合いもいない所に一人じゃいくらなんでも寂しいかなあ」 「……二人なら寂しくないんじゃない?」  今度は私が起き上がる番だった。え?と福のほうを見ようとしたその時、前の席の男性が振り返った。しーっと静かにするように言われ、私たちはそれきり黙りこくった。目が冴えてしまい、私はそれからしばらく寝つけず、寝返りを打ってばかりいた。今度こそ、胸の動悸の訳は仙台でも野球でもなかった。  仙台から帰り、私たちはフェニックスドームでのアルバイトに戻った。  日帰り遠征以来、ファルコンズがビジターチームとしてフェニックスドームに来ている間、福は何となく浮足立って見えた。  業務用通路では選手とすれ違うことも少なくない。「47」とすれ違うたび、福は嬉しそうに報告してくれたけれど、私は正直面白くなかった。  私だってファルコンズのファンではあるけれど選手個人に熱を上げることはないし、当たり前に異性に惹かれる福を目の当たりにしているようで辛かった。認めたくなかったけれど。
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