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七回表
当時のことを思い出すと、今でもつい「27」への当たりが強くなってしまう。スタジアムの騒がしい空気をよそにぼんやりそんなことを考えていると、着信を知らせる緑色のランプが点滅した。
やっと電話してくれる気になったのかと、ひとまず私はホッと胸を撫でおろした。そしてもう一度絵梨に断りを入れ、その場を離れた。
「もしもし福?ごめん、私が考えなしに動いたせいで傷つけたよね」
私の言葉には答えずに、お風呂入ってたとむっつりした声が返ってきた。目を瞑ると、電話越しにシャンプーのシトラスが香ってくるようだった。
「……最近の環、おかしいよ?何か言おうとしてるのに言わないし、かと思ったら妙に焦ってるし。昔に戻ったみたい」
「そ、そうかな」
「……それに前は、お風呂入りなさい!っていくら言ってもテレビの前から動かなかったのに」
いつも通りだと思っていたのは私だけで、福はしっかり見ていた。――いや、見てくれていた。きっと本当に言いたいのは絵梨と二人で野球を観に来たことではなく、その奥にある何かだ。そこまではピンとくるのに、仕事でプレゼンする時のようには私の口はうまく回ってくれなかった。
「ええと、また話すけど、とにかく後輩は何も関係ないよ。そもそも、ヘテロだろうし」
「そんなの関係ない。何か知らないけど、私はずっと環が話してくれるのを待ってたよ。でも環は私のことなんか頭になくて、後輩と遊び回って楽しくやってたんだね」
タガが外れたように次々と言葉が降ってきて、もう何を言っても私の言葉なんか福の頭の中で膨らみ続ける悪い想像には勝てないのではないかと思った。だが福をここまで追い詰めたのは間違いなく私だった。
「……分かった。すぐにホテルに帰るからそれから話そう」
「球場から仙台駅まで一本道でしょ。歩きながら話せば」
落ち着いて話せる所でと思ったけれど、福には通用しなかった。今日のホテルの場所は言ってあったし、仙台中心部や球場周辺の地理はもちろん完璧に頭に入っているからだ。
座席に戻り事情があって先にホテルに帰ると私が告げると、いかにも面倒な男と付き合ってるんだなと言いたげに、絵梨は同情顔で頷いた。
私は球場を出るまでの短い時間、必死で頭を巡らせた。
福には福のキャリアビジョンがあって、忙しいけれどやりがいを持って働いている。それを無視して、軽々しくついてきて欲しいだなんてどうして言えるだろう。私のせいで福が縛られるのは嫌だった。
そうは言っても、逆に「別れよう」なんて言われでもしたら私は耐えられない。遠距離になるという選択肢も同じだ。最悪の場合、福の勤務している大学チームの選手たちだけでなく、同僚、友達――福を取り巻く全てにきっと私は我慢ならなくなってしまうだろうから。
福はちょっとした取るに足らないことで「幸せ」とよく言葉にしてくれるけれど、逆に言えば私の代わりなんかいくらでもいる。その気になれば、福は異性と幸せになることだってできるのだ。窮屈な思いだってしなくて済む。
それならばいっそ――。
最後に残ったビールはことさらに苦かった。
売り子のお姉さんとの約束を破ってしまったな、とどうでもいいことを思って、私は球場を後にした。
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