七回裏

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七回裏

 仙台遠征から間もなく、福は無事に外野エリアのビール担当に昇格した。そして私の思惑とは裏腹に交わした約束を忘れることなく、私のアパートに遊びにきた。自分のテリトリーに他人を入れるのはどちらかと言えば苦手で、部屋に誰かがやって来るのは一年前両親が来て以来だった。 「おじゃましまーす」  そう言って福はドアを開け、玄関を入ってすぐの所に飾っていたチャンピオンリングをしげしげと眺めた。それは以前ファルコンズが日本シリーズで優勝した時のもので、大きい上に普段使いするものでもなかったので、今では大きな置物と化していた。 「はめてみていい?」  福が目を輝かせるのを見て、私はリングをケースから取り出した。ほっそりした中指はごついリングを通すと余計に華奢に見えた。角度を変えると、大きな赤いFの字の周りを埋め尽くすラインストーンがギラリと輝いた。もちろんレプリカなので本物の石は使われていないが。  福はしばらく眺めてそっとリングを外した。 「一人暮らしの人の家って初めてだから緊張すると思ったけど、環の家は宝の山ね」 「私も親以外の人を入れたのは初めてかも」  それは本当のことだったけれど、この部屋はレプリカのチャンピオンリングと同じ――偽物だ。少しでもセクシュアリティを仄めかすようなものは、漫画から映画のDVDまで全て事前にクローゼットの奥に詰め込んでいた。福が知ったらきっと、私と同じ部屋にいるなんて耐えられないだろうと思ったのだ。  残ったのは棚に並べていたファルコンズの選手フィギュアや、壁にかけて飾っていた毎年デザインの変わる限定ユニフォーム、それにゲーム機と「プロ野球魂」のソフトだけだ。  二人で福のビール担当昇格を祝った後で、福はさっそくゲームを始めた。対戦モードで無心にコントローラーをいじくっていると思ったら、福は画面を見つめたまま唐突に口を開いた。 「ゼミで一緒の男子がね、私が野球好きなのを知って今度二人で行かないかって誘ってきたんだけど、どう思う?」 「デートのお誘い?」  たぶん、と困り顔で福は頷いた。 「地方の球場だって」 「いいなあ、私も色んな球場に行ってみたい」  声が震えた。胸に白刃を突き付けられたかのようで、自分でも何を言っているのか分からなかった。心臓がバクバクいって、真顔を保つのがやっとだった。  私たちを繋ぐ唯一のものなのに、友達という顔をしてようやく手にできたのに、その野球すら男に持っていかれるのか――。  何重にも皮膜が重なったその奥、胸の奥の奥ではそんな悔しさが燃えていた。だがそんな本心はうまく隠せたと思っていたのに、福は顔を曇らせた。 「じゃあ代わりに行く?」 「え?興味あるんじゃないの」 「私が興味あるのは……」  言いかけて福は唇を噛んだ。 「私が興味あるのは、それは環だよ。女の子が気になるなんて初めて」  予想もしていなかったことに私は固まった。告白してフラれるシーンなら何度も想像したけれど、こんなのは知らない。  嬉しい気もする。でも自分の感情も、福の想いも、受け入れていいのか自信がなかった。 「私も福のことは好き……だけど、それは友達として。それに私はやっぱり異性を好きになりたい」  なぜかそう言わなければならないような、頭の中の声に言わされているような、そんな感覚だった。きっと私は全てを否定することで安心したかったのだ。それなのに福はこう言った。 「そっか。こんな逃げ場のない所で告白なんかしてごめんね。だけど私の気持ちを否定しないでくれてあるがとう」  そういう所が……、と言いかけて福は口をつぐんだ。  幼い頃から気になるのは同性ばかりだった。でも学校の授業や教科書の中にモデルを求めても、教えられるのは異性同士のカップルのことだけだった。  きっといつか私にも異性に惹かれる日が来るのだろう、早くその日が来ればいいと思って生きてきた。自分ではどうしようもないほどその思いは強固で、だからこそ福の言葉を嬉しく思う気持ちも、心に芽生えた想いも拒絶してしまった。  黙っている私に福は遠慮がちに言った。 「せっかく来たのに気まずい空気にしちゃった。今日はもう帰ろうかな」 「気まずくなんかないよ。福のことは、友達とか恋人とかそういうのを超えて……何ていうか人として信頼してる。それは何があっても変わらないよ」  これだけは伝えたいと思った本心なのに、口に出した途端それはいやに空々しく響いた。 「私も環と仲良しでいたい気持ちは変わらないから、今まで通りに接してくれると嬉しいな」  育成モードの選手たちもまた育てたいし、と福は無理に笑ってみせた。  福の言葉は、想像の中ではいつだって自分の台詞だった。それが不思議にすら思えた一方で、そのくせ私は優越感さえ感じていた。  ――大丈夫、私はふつう。  そうして私は福からも、お手本がないと動けない自分自身からも目を逸らした。
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