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九回表
灯ろう流しを見物したその年、ファルコンズは優勝を果たした。
私はその次の年ももちろん二人で仙台に行くものと信じて疑ってもいなかった。けれどその前に、私たちには就活という人生における大きなイベントが待ち構えていた。
当初私はスポーツ関係に志望企業をしぼっていたので、飲料メーカーである今の会社は考えてもいなかった。だがバイト中に知り合った社員に声をかけられ、軽い気持ちで受けた面接で球場での経験が予想以上に評価された。打ち込んできた売り子の仕事をどの企業よりも認めてもらえたことが嬉しくて、それが入社の決め手になった。
意外にも夏前には就活を終え、有頂天になっていた私は福も当然そうだろうと思い込んでいた。
〈就活どう?今年も仙台行こうと思うけどどうする?〉
そうメッセージを送ると、既読になってしばらくしてから〈うーん〉と煮え切らない返事が返ってきた。ふざけて〈もしかして彼氏できた??〉と送ると、すぐに既読がついたものの返信が来たのは翌日のことだった。
〈環はもう決まったの?さすがだね。行きたいけど、今年は管理栄養士の国家試験の勉強を頑張りたいんだ。将来はスポーツチームで働きたくて〉
福が栄養学科に通っているのは知っていたけれど、スポーツ栄養士を目指していたなんて初耳だった。“彼氏”の話題なんてなかったかのように、淡々としたメッセージが送られてくる。
高校までテニスをしていたが、怪我をして続けられなくなり、マネージャーに転向したこと。部員のサポートをするうちに、もっと専門的な勉強をして選手の力になりたいという思いが芽生えたこと。球場で働きたかったのも、野球が好きという他にプロスポーツチームの裏側を覗いてみたかったからだということ。
正直に言うとショックだった。福のことを知っているようで何も知らなかったことだけじゃない。恥ずかしいことだけれど、野球、仙台、そして私を置いてもやりたいことがあるなんてというのが本音だった。
そしてそれ以上に、そんな当たり前のことすら忘れていた自分自身に愕然とした。
絵文字もスタンプもないメッセージを、福はこう締めくくった。
〈今は恋人作る暇なんかないよ。それにそんなこと環にだけは言われたくなかった〉
目が覚める思いだった。
私は傲慢だ。ずっとずっと福の好意に甘え続けてきたんだ――。
どうしたらいいのか分からなかった。でもじっとしていることもできなくて、私は一人仙台行きの高速バスに乗り込んだ。
折しも、八年前初めて来た時と同じ七夕祭りの頃だった。私は福のいない仙台に降り立った。
商店街に連なる吹き流しの陰に、ケヤキ並木の木漏れ日の下に、広瀬川の岸辺に、そして隣に。どこにいても福の残像が残って、目を閉じても瞼に張り付いて消えてくれない。
その上どこからか聞こえてくる風鈴の音に誘われて、軽やかな福の笑い声までが耳の奥で響く。心地いいその声をずっと聞いていたいという思いが少しずつ雑音を遠ざけていった。
私は奮発してバックネット裏のチケットを購入した。福と一緒の時でさえ一度も座ったことのない席だ。虚勢を張りたかったのもあるけれど、いつもの外野席にはどうしても足を踏み入れられそうになかったのだ。きっとまた福を探してしまうから。
『いつかまた福とここに来られますように』
短冊にそう書き、用意されていた笹に吊るした。以前やったとおりに。たしか、かつて私は『来年は雨が降りませんように』と書いた。そういえば、福は「ないしょ」と言っていたけれど、あの時いったい何を書いたのだろう。
私は短冊を吊るした笹とスタジアムの写真を撮って福に送った。
〈今仙台にいるよ〉
というメッセージとともに。
けれど返事はこうだった。
〈誰と?〉
私が一人で仙台に行くのは寂しいと言ったのを福は覚えているのだろう。慌てて〈一人だよ〉と返信すると、一気に数行の吹き出しがポンポンと現れた。もちろん絵文字もスタンプもない。
〈彼氏できた?とか聞いたり、こんな写真送ってきたり意味が分からないよ〉
〈東京で就職決まったんでしょ?それとも仙台で面接でも受けるの?〉
〈環は野球さえあればいいんだ。一人は寂しいなんて言ったくせに、結局私なんかいなくても平気なんだよ。ううん、きっと環は誰のこともいらないんだよ〉
〈今まで辛くても友達やってきたのが馬鹿みたい〉
〈私が気持ち悪いなら最初からそう言えば?社交辞令で誘われても、気休めにもならないよ〉
今さらになって後悔した。よりによって気持ち悪いだなんて、私が一番気にしてきた言葉を言わせてしまうなんて――と。
そして祈るような気持ちでもう一度メッセージを送った。
〈明日、朝七時に新宿に着く。それ以降なら福の予定に全部合わせるから話をさせてほしい〉
帰りの高速バスの中でようやく返ってきたのは、〈明日昼前に面接だから九時に西新宿で〉というそっけない一言だった。
*
六年前の記憶が濁流のように押し寄せてきた。福のいない空白は記憶では埋められず、かえって彼女の不在という穴を広げてしまう。
過去と今が時を越え、不思議にぴたりと符合した。長い間福を傷つけ続けたあげく、かつての私はどうしただろうか。
スマホから福の声がした。
「八年前の七夕覚えてる?私、短冊に『また環と二人で来られますように』って書いた。私の気持ちはあの時と何も変わらないよ。六年前、環が仙台から戻ってきて話してくれたこと、今はもう違う?」
――もう福がいない頃には戻りたくないって気づいたんだ。例え離れていても、どこにいたって福を探してしまう。だから私と一緒にいてほしい。
たしかに六年前の私はそう言った。
今は?
今だって変わらない。
それをこの仙台で再確認したばかりなのに、私はまた福からも自分自身からも目を逸らそうとしていた。
「……ごめん。私、同じことの繰り返しだね。福はずっと『幸せ』だって言ってくれてたのに空回ってばかりだ」
「環は一人で考えすぎ。二人のことなのに一方的に結論出して置いてきぼりにされるのは寂しいよ。もうちょっと頼ってほしい」
「でもこんなに悩むのも、私の幸せが福だからなんだって思ったよ。だから遠距離でも我慢する……胸が張り裂けそうだけど」
「私の幸せだって環だよ。でも忘れないで。私にとっては何をするかより、誰とするかのほうが大事なんだから」
福らしいな、と思った。凝り固まっていたものをいとも簡単にほどいて、私を変えてしまう。どうしても福がいい、と強く思った。
私は自分ができないことを福に背負わせようとしていたのかもしれない。
かつては「男の子だったらよかったのに」と言われ続け、今同じ口に「女は早く結婚して孫の顔を見せろ」と急かされている。だが私は男になることも、男性と結婚することもできない。そのことをずっと気に病んでいたのだろう。
今度こそもうやめようと思った。自分の気持ちや福の気持ちを否定するのは。周囲に振り回されるのは。
「……もう一度私をマウンドに立たせてほしい、ううん立ちたい」
「え~始球式は私の担当なんですけど」
福の冗談めかした口調にふわりと心が軽くなる。
「二人でやろう。春季キャンプもオールスターゲームも全部行こう」
そうね、とスマホ越しに風鈴の音のような声が心地よく響いた。
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