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九回裏
一頻り笑った後で、福の声に唐突に野球中継の音声が混じった。そろそろ試合経過が気になりだしたのだろう。一瞬テレビを見やる気配がして、福はわざとらしく息を飲んだ。
「あ、ねえ、こんなこと話してる間に十点差追いつかれてるんですけど」
「えっ、うそ。今何回?」
「いいから早く球場に戻って!」
私がいないほうが勝てるのでは……と言う前にブチッと電話が切れた。テレビに集中することにしたらしい。とりあえずスタジアムに引き返すと、試合は同点のまま九回裏にもつれ込んでいた。ワンアウト満塁、一打サヨナラのチャンスだ。ますますいないほうがいいのでは……と思える。
私は絵梨が座っている所から少し離れた出口の前に立った。見晴らしがよく、意外と試合全体がよく見えるのだ。
ふと目の前を見ると、おそろいのTシャツを着た年間シートのオーナーらしい老夫婦がかたずを飲んで勝負の行方を見守っていた。長く暗いトンネルの先にかすかな光が差した気がした。
福と二人でこうなりたい――。
ただそう思った。お手本なんかなくても大丈夫。私たちなりの道を歩んで最後にここで並んでいられたらそれでいいのだ。
また福を探しそうになって、私はもう一度通話ボタンを押した。星の数ほどもいる観客の中に彼女はいないから。二、三コール待った後で、ようやく福は電話に出た。
「あ、戻った?」
「うん。でもサヨナラのチャンスで戻ったりして大丈夫かな……」
心底不安になって私はそうこぼした。
「私だけサヨナラ勝ちを観ちゃうのは不公平でしょ?」
自信満々に勝利を確信している福の顔が脳裏に浮かび、つい口もとがほころんだ。そしてその拍子に言うつもりのなかった本音が溢れ出た。
「……福をおいて私だけ仙台に行っちゃうのも不公平だと思わない?」
福はハッと息を飲み、つぶやくようにして言った。
「やっと言ってくれた。環は時々物分かりがよすぎるから。次の転勤地の話、私は別に東京に戻らなくてもいいと思うよ」
「どういうこと?」
「だから、環だけ仙台に行かせちゃうのは勿体ないでしょ。仕事なら仙台にもあるし、そのうち私がそっちに行くわよ。環をそっちに一人にしたら万年最下位になりかねないもん。――それに言ったでしょ?二人なら寂しくないって」
「……もしかしたら福の運吸っちゃうかもよ?」
この期に及んでそんな風にうじうじしていると、電話の向こうから大きなため息が聞こえた。
「はあ。私は人より二倍幸せになれるらしいからちょうどいいわよ」
大丈夫。私に任せて。福はそう言っていつも私の先を行き、私を引っ張り上げてしまう。
ツーアウト満塁、フルカウント。
応援バットのバンバンいう音、外野から聞こえてくるチャンステーマは一層熱さを増し、最高潮に盛り上がっている。自分の声までもかき消されそうで、私はほとんど叫ぶように言った。
「私には福しかいないよ!ずっと一緒にいてください!」
球場の空気がぐわんぐわんと振動し、福も何か照れたり呆れたりしているみたいだったけれど、よく聞こえない。
「えっ?何か言った?何て言ってるの?」
「だーかーらー」
負けずに福は声を張り上げた。
「何度も言ってるでしょっ!!イ、エ、ス!!」
試合そっちのけでスマホにくっつけていた右耳にそう聞こえた瞬間、左耳に大歓声が届いた。私が飛び上がったのがカメラの隅に抜かれた直後、球場中が跳ね上がり、歓喜の声は七夕の夜空に溶けていった。
願いを託す短冊はもう必要なかった。
私たちは星じゃない。自分の軌道は自分で決める。
天の川が二人を隔てるならば泳いで渡ろう。私はもう絶対に幸福を諦めない。たとえ見苦しくても、溺れそうになったとしても。
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