二回裏

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二回裏

 ――私の名前、福って書いて「さち」でしょう。幸と福で二倍幸せになって欲しいって両親が名付けてくれたんだ。  出会ったばかりの頃、福はそう教えてくれた。だからだろうか、休日の朝寝坊にも、仕事で担当している選手が大会で入賞した時にも、冷蔵庫の残り物でいい加減に作った料理が意外と悪くなかった時にも、福は口癖のように「幸せ」と繰り返した。以前はそれを聞くたび私も温かい気持ちになった。  でも――。  そんな願いを込めて両親に大切に育てられた福は今、同性の私と暮らしている。両親は最近、福が実家に帰るといつも高校の頃付き合っていた近所に住む幼馴染の男性を話題にするらしい。 「それとなーく探ってくるんだけど、嫌になっちゃう」  そう言って福が苦笑する時、私は決まってただあいまいな笑みを返した。それ以上聞く勇気なんかなかったから。  私は異性を愛することはできないし、異性と結婚する気もない。そしてそれを覆すほど出産願望も強くない。  でも福はその気になれば両親の願い通り、“ふつう”の人生を送ることだってできる。とするなら、福を縛っている私ではないかという思いは胸の中にしだいに膨らんでいった。  二十代前半の頃は経済的な余裕はなかったものの、そんな不安に駆られても勢いで乗り切れた。だが数年経った今、それは見事に逆転していた。  大手飲料メーカー勤務の私と、大学の競泳チームで専属の栄養士としてほとんど休みなく働く福。お互いに収入は安定したけれど、常に時間に追われている。  かつて二人で抱いた夢や目標はおぼろげに霞み、福の「幸せ」を聞くたび、私が福にしてあげられることなんてちっぽけで取るに足らないことばかりだと感じていた。  今の日本では同性同士ではお互いと血の繋がった子どもが望めないのはもちろん、結婚さえできない。  その代わり、楽しいことを目一杯しようとかつては話していた。「就職が決まったら」と話していた、春の沖縄キャンプ、オールスターゲーム、夏の仙台遠征へ毎年行こうという約束は、「仕事に慣れたら」に変わり、「同棲が落ち着いたら」に変わり、そのうちに次々と積まれていく「新しいプロジェクトが終わったら」に変わった。  そして毎年はおろか、そのどれも叶っていない。  私といてできることなんて、他の誰とだってできるのだ。  ――福にとっては男性とだって。  時折何の前触れもなく、そんな感情に苛まれた。付き合って六年、同棲して三年、当たり前に続いていくと思っていた日常は意外ともろいもののように思えた。  “ふつう”の人生も、それを犠牲にしてもいいくらいの幸せも、そのどちらも私は福にあげられない。  私は福の両親の願いを踏みにじっているんじゃないか――。  上司に呼び出されたのは、そんな思いに囚われ始めていた頃だった。  だから福が三本目の指を折ろうとした時、私はそれを遮った。優しい彼女はいつも私の喜ぶ答えを言ってくれるけれど、素知らぬ顔でそれに甘えるなんてさすがに都合がよすぎると思ったのだ。 「野球とビールと、あと笹かまがあれば完璧?」  福は一瞬ぽかんとした顔をして、すぐに「さすが環、分かってる~」と肩にもたれてきた。半乾きの長い髪からいつものシトラスの爽やかな匂いがふんわり香る。自分でもおかしいと思うけれど、それはどんな壮大な夢よりも幸福で、ただ一つの失いたくないものだった。  ふとテレビに目を戻すと、送りバントが成功しワンアウトでファルコンズのランナーが二塁にいた。クリンナップに打順が回る大チャンスだ。  画面の端にちらりとネクストバッターズサークルにいる背番号27が映り、私はピクリと反応した。 「あ、27」 「そろそろ名前で呼んであげたら~?」  福は面白がっているのを隠しもせずに、からかうように言った。 「……47って呼ばないだけ偉いでしょ」  背番号27の彼は福のいわゆる推しなのだ。  私たちが大学生だった頃、まだ彼は背番号47だった。結果を出したり、期待をかけられている選手は背番号が若くなることがあるが、彼もそうだった。打力もさることながら、肩が強くリーグでもトップクラスの盗塁阻止率を誇り、今では押しも押されぬファルコンズの正捕手になっていた。それに福曰く、キャッチャーマスクから覗く鋭い眼差しが侍みたいで堪らないらしい。  選手として頼りにしているしもちろん応援してはいるけれど、福が絡むとどうしても大人げなくヤキモチを焼いてしまう。 「ほらほら、お風呂入るなら今だよ」  軽く宥めるような福の声に、私は肩を抱き寄せようと伸ばしかけた手を引っ込めた。どうしてかは分からないけれど、そうしたほうがいい気がして。 「はいはーい……」  普通ならチャンスでテレビの前を離れるファンはいない。けれどここは福の運に任せることにして、私は大人しく脱衣場に向かった。  こんなやり取りは私たちの間でしか通じない特別なルール、言ってみればじゃれ合っているようなものだった。何もかもいつも通り。少なくともこの時私はそう思っていて、背後で福がほんの少し眉をひそめていたなんて知る由もなかった。
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