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三回裏
八年前の春、私は東京近郊にあるフェニックスドームでアルコール飲料を売り歩くアルバイトをしていた。
低くない倍率を勝ち抜いて採用されたスタッフは皆若くてアイドルのような容姿なのかと思いきや、意外にもバラエティに富んでいた。年間売り上げランキングにはベテラン女性スタッフも名を連ねていたし、ダメ元で面接を受けた私も中高六年間陸上をやっていたという体力を買われて採用された。
新人は始め外野エリアで単価の低いサワーやハイボールを任され、慣れてくるに従ってビール担当にシフトし、最後に内野を任されるのが常だった。
私に遅れること一年、新人の福は華奢な背中に重いサワーのサーバーを背負い、まるでランドセルに背負われた入学したての小学生のようだった。
その頃私は内野席のビール担当に昇格したばかりで得意になっていた。だからいかにも頼りなさそうな福を見てつい先輩風を吹かせたくなり、仕事後に声をかけた。164センチの私より頭一つ分小さい彼女はどう考えても年下だと思ったのだ。
「えっと、吉住……ふくさん?」
ネームプレートを覗き込んだ私に、福は言われ慣れた様子で首を横に振った。
「よく間違われるけど、さちって読むんです。古屋さんですよね、よろしくお願いします」
ぺこりと丁寧に頭を下げられ、体育会系の縦社会で生きてきた私はシンプルに好感を抱いた。
「こちらこそよろしくね。初仕事はどうだった?初めての子は馴染めなくてすぐ辞めちゃう子もいるんだけど」
「皆さん、それぞれ工夫されてますよね。常連さんの顔と名前を覚えたり、状況を見て違う飲料の担当とも連携したりしてすごいなって思います。私もがんばって結果出したいです」
はにかんで笑う福は、初めての経験でいっぱいいっぱいかと思いきや、冷静に周りを見ていた。私は急に、かつて先輩に言われたことをそのまま投げかけた自分が恥ずかしくなり、しどろもどろになりながら自己紹介をした。
「わ、私は古屋環。大学二年で二十歳になったばかり。ここのバイトは去年からやってるんだ。吉住さんはしっかりしていてすごいな、私なんて入りたての頃は右も左も分からなかったよ」
「あっ、じゃあ同い年!良かったら色々教えてくださいね!」
手を叩いてニコニコ笑う福は可愛くて、きっとモテるだろうと思った。
――女の私から見ても。
あえて胸の内でそう確かめたのは、その時の私はまだ同性に惹かれるということを認めたくなかったからだ。
ずっとなかったことにしてやり過ごしてきたのだ。私にもいつか異性に惹かれる日が来ると信じたくて。
だがもちろんそんな思いはおくびにも出さず、私は営業用の笑顔を浮かべた。
「私も最初は先輩に色々教えてもらったし、何でも聞いてね。あと同い年だしタメでいいよ」
「やった!じゃあ環って呼ぶね。さっそくだけど環がキャップにつけてる花って何?してる人としてない人がいるよね」
タメでいいとは言ったけれど、まさかその場で呼び捨てにされるとは思っていなくて、私は面食らった。何というか、物怖じせずに距離感を詰めてくる子だと。でもこういう子はきっと固定客を掴む日もそう遠くないだろうとも思った。
「これ?」
メーカーロゴの入ったキャップを傾け、サイドに飾った手のひら大の花を見せると、福は「それそれ」と頷いた。
「誰が決めたのか知らないけど、、二年目になるとキャップに花をつけられるようになるんだよ。私も先輩と買いに行った」
私の鮮やかな青いガーベラの花は、仲のよかった先輩がその時に選んでくれたものだ。その先輩は就職で先に辞めてしまったけれど、当時の思い出とともに大切にしていた。
「じゃあ来年の私の時は環について来てもらお」
ふにゃっとした笑顔は雲の切れ目から差し込む光のようで、私もつい無意識に相好を崩していた。
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