四回裏

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四回裏

 フェニックスドームで知り合って以来、私はSNSを使った知名度アップや飲料サーバーの扱い方、客に覚えてもらえるよう個性を出すノウハウ、教わってきたことの全てを(さち)に伝えた。  私は内野、福は外野担当だったのでライバルになり得ないという事情もあったけれど、今思うと単に次の年髪飾りを一緒に選びに行きたかったのだと思う。だからそれまでに売り上げが伸びなくて辞めてしまうなんてことはさせたくなかったのだ。  けれどその時の私はただ親切な友人として世話を焼くふりをして、そんなエゴには気づかないふりをしていた。  そんなある日、たまたま帰りの電車が重なり私たちは並んで座った。途中までは同じ路線なのだ。 「この駅終点だから座って帰れて最高だよねえ」 「ほんとほんと。私なんてまだ仕事終わりは脚パンパンだもん」  そう言いながら福が伸びをした拍子に、ふわりと制汗剤のシトラスが香った。どきりと胸が高鳴り、つい声が上ずってしまった。 「実は私も陸上やってた頃より筋肉ついちゃった」 「(たまき)、陸上部だったんだ。ソフトボールやってそうって思ってた」 「父が野球好きで少年野球はやってたよ。でも中学に上がったらもう男子に力では敵わなかった。ソフトボールも考えたけど、どうせなら違うことをしてみたかったんだ」 「それで陸上を……。でもまた野球に戻ってきたんだね」  ひとり言のように福はつぶやいた。深刻な話をしたつもりはなかったけれど、心の奥でくすぶっていた悔しさに暖かな日の光が差したような、そんな気がした。だから私はことさらに明るく言った。 「私、小学校までは身長も大きくてこれでもチームではエースだったんだ。だからどうしてもマウンドへの憧れが捨てきれなくて」 「そっか。私がここで働こうと思った理由なんか聞いたら笑われちゃうかな」 「なんで?そんなに面白い理由なの?」  興味津々で私が聞くと、福は恥ずかしそうに俯いた。 「野球を好きになったこと自体は元彼の影響なんだけど……、ここなら働きながら野球観放題だなあって、落とされても何度も応募したの」  “元彼”というワードに、一瞬胸がチリッと痛んだ。けれどその意味を考える間もなく笑いが込み上げ、福の頬がふくらんだ。 「ほら笑った~」 「あははっ、ごめんごめん」  と笑いつつ、私はひそかに感心していた。  福は担当者に顔を覚えられるくらい何度も面接を受け、やっと熱意を認められたらしい。私なら二、三回落とされたら諦めて他のバイトを探していただろう。福のガッツに比べたら私なんか到底及ばない。アドバイスを素直に受け入れ、さらにそれを自分に合った形に発展させる仕事ぶりにも重なる気がした。  私は笑いを引っ込めると、ほんの少し姿勢を正した。 「いやそこまで福が野球好きだとは思わなくて……。さっきはちょっとカッコつけて言ったけど、私も同じだからついおかしくなっちゃった。ファルコンズの試合の時は仕事中でもどうしてもテンション上がっちゃうもん」 「野球好きの女の子は珍しいもんね。私は学生野球からハマったんだけど……、そうだ!今度うちの大学のリーグ戦一緒に観にいかない?」 「いいの?私の大学、野球と縁がないから楽しみ」  福の通う私立大の名で検索すると、動画サイトにはスタンドで学生や観客が肩を組んで応援歌を歌う動画がたくさん投稿されていた。特にスポーツに力を入れているわけでもない、何の変哲もない公立大学に通う私としては憧れの世界だった。  行く、と二つ返事をし、私たちの球場通いは始まった。もしかしたら福の元彼もこの中のどこかにいるのだろうかとモヤモヤすることもあった。だがそんな感情と向き合うことはなかった。内に秘めることに慣れ切っていたのだ。周りに悟らせないようにするのはもちろん、胸の奥深くにしまって自分自身からも隠そうとしていた。  学生野球はともかく――プロ野球の試合では私たち学生に毎回内野席のチケットを買うほどの余裕はなく、もっぱら外野自由席での応援が主だった。学生野球で慣れているからか、福は私設応援団によるチャンステーマや選手の応援歌も早々に覚え、わざわざビジターゲームにやって来るような熱心なファンとも一緒になって声を出していた。  私は同じくらいの熱量で野球を楽しめる仲間ができて嬉しかった。ただその頃の私たちはアルバイトでもプライベートでもよく一緒にいたけれど、顔を合わせるのはいつだって球場だった。球場はゆっくり落ち着いて話をする場所ではない。その上、外野自由席は応援を楽しむことに特化したエリアだ。  だから私たちはただのバイト仲間というには仲がよかった一方で、お互いのことはほとんど知らなかった。何を好きで何を嫌いか、恋人はいるのか、そんな友達なら当たり前にする会話よりも野球の話ばかりしていた。  もっと踏み込みたいと思うのに、逆に踏み込まれることは恐れていた。共通の話題があれば安心できたのだ。  そんな相反する感情が渦巻いて、心の中は少しずつ乱されていった。  最初は野球の話ができる友人というだけで嬉しかった。というよりも、言ってみれば誰でもよかった。それなのに仲良くなってみたら、今度は野球という話題を失ったら私たちは友人でさえいられないような気がして、ことさらに野球の話題ばかりを振るようになっていた。  そうこうしているうちに福は順調に売り上げを伸ばし、そろそろビール担当に昇格かと言われ始めた頃だった。試合後ロッカーに向かうと、そこにはすでに福の姿はなく、もう帰った後のようだった。試合後に待ち合わせて一緒に電車に乗るのはもはや日常だったので、何かが引っかかった。  福は急ぎの予定があったとしても黙って帰るような子じゃない――。  そう思ってスマホを確認すると、果たして福からのメッセージが暗い画面にポツンと浮かんでいた。 『お疲れさま。今日はチケットボックスの横で待ってるね』  普段なら絵文字やスタンプが乱れ飛んでいるのに、珍しくシンプルな文面。それにいつも待ち合わせるのは業務用通路なのに、今日に限ってどうしたんだろう。強い違和感に襲われて、私はチケットボックスへと急いだ。  観客も帰り、清掃の済んだチケットボックスの周辺ではスタッフの姿もまばらになっていた。 「福~?いるの?」  照明が落とされ薄暗くなった辺りに目を凝らすと、暗がりになったチケットボックスの陰で人影が身じろいだ。現れた福は俯いていて、きつく結んだ口もとしか見えない。初めて見る表情だった。 「どうしたの?嫌な客でもいた?」  福がふるふると首を横に振った拍子に、涙の粒がぽたぽたとアスファルトを濡らした。一瞬慌てたけれど、球場の周りには落ち着けるカフェも何もなかったから、福の最寄り駅まで送っていきがてら話を聞くことにした。 「ごめんね……、環は乗り換えないといけないのに」 「そんなこと気にしないで。それより何があったの」 「いいの、私のミスだから。千紘(ちひろ)さんは悪くない」  ぽろりとこぼれ出た「千紘」という名前にハッとして、福は口をつぐんだ。自分を責めるかのように顔を歪ませて。  千紘は福よりも数ヶ月早くこの仕事を始め、今は外野エリアのビール担当だった。一年前から働いている私よりは後輩だけれど、大学三年だから年齢的には私や福よりも上だ。福がビール担当に抜擢されるかもという噂を聞いて、最近ははたから見てもピリピリしていた。 「何か言われた?」 「私が千紘さんの常連のお客さんに先に声をかけちゃったから……。だから何を言われても仕方ないんだよ」  売り子の給料は時給プラス歩合給で支払われるので、こういうトラブルがないわけではない。だが誰でも犯しかねないミスだからこそ、特定の人を責めたりせずにお互い様でやっているのだ。 「別の人の常連まで覚えていられないし、気づかなかったほうの責任だよ。それにどうせお客さんが先に福を呼んだんでしょう」  そうだけど……、と言い淀む福に私は言った。 「福が頑張ってるの、内野からでも分かるよ。常に客席に気を配ってるし、いつも笑顔を忘れない。だからお客さんにも可愛がられるし、ビール担当になったらきっともっと活躍できると思う」  いつも思っていたことだったけれど言葉にしたことはなかったので、福が息を飲むのが分かった。  ――踏み込みすぎた?  心の声がそう警告していたけれど、不思議とそんなことはどうでもよかった。 「……ありがと。そう言ってもらえると、絶対に負けないって思えるよ。環のおかげ」  そっと福が私の肩にもたれ、またこの間のシトラスが香った。  胸が早鐘を打っていた。私は何にどきりとしたのだろう。  いつもより近い距離のせい?  目で福を追っていたことをつい明かしてしまったから?  それとも――一瞬でも彼女の特別になれたらなんて願ってしまったから?  その全てだと思った。ようやく気づいたのに、どうしても身動きが取れない。絡まり合ういくつもの思いを覆い隠して、私は笑顔を張り付けた。 「今、夏休みでしょ?来週仙台にファルコンズのホームゲームを観にいくんだけど、一緒にどう?弾丸だけどパーッと遊んで忘れちゃおうよ」 「本当!?行く行く!すっごく楽しみ」  こんな風に言ったら福なら喜んでくれると思っていた。詰まる所、私は福の消沈ぶりにつけ込んだのだった。頼れる先輩と仲のいい友達、どちらの顔も捨てられないまま。
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