第一章 大人の手に抱かれる

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「天ケ瀬、パン持って来た?」  真原に聞かれたが、叱声症の結都は声が出ないので『パ、ン』と唇を大きく形づくり、小首を傾げた。  真原は足元にある道具箱の上に置かれた食パンを、ひょい、とつまみ上げ、くり抜かれた穴なか悪戯っぽく結都を覗きこんだ。 「木炭は、パンが消しゴム」  指先でちょいちょい、とうながされ、真原の絵に目をやると、白いマルスの胸像が木炭の線で真っ黒なマルスになっている。 「見てて、天ヶ瀬」  ニッと笑った真原が、パンの欠片を紙にあて擦ると、黒い粉が真原の手の周りに舞い散り、マルスの黒い頬に滑らかな『明』をつくった。 (すごい)  結都が指先でぱちぱち、とクラップすると、真原は照れた顔でパンを千切り、結都に差し出した。 「どーぞ」  もらえない、と結都は首を振ったが、真原がじっと見つめるから、ありがとう、と頭を下げ、パンの欠片を受け取った。  皆が腕を動かす中、大きな画用紙の前で木炭を持ったまま途方に暮れる。  本格的な絵なんて、描いたことがない。  木炭、カルトン、イーゼル、教えて貰って、今日初めて道具の名前を知った。  震える指先で木炭を持ち、恐る恐る紙に近づける。 「ちょ、天ヶ瀬、待っ……」  真原が止めるよりも早く、背後から、白衣の大きな手に手首をつかまれた。  びくり、と全身に緊張が走る。 「木炭の芯を抜け、転入生。そんなことも知らずに高二の終わりになぜ、美術科を選んだ?」  テノールよりも低いバスの美声に、思わず振り返る。
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