第一章 大人の手に抱かれる

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 一週間前、天ヶ瀬結都は都内M区の公立高校に転入して来た。  選択科目は美術、音楽、書道から選べ、結都は美術を選んだ。  美術クラスは人数が極端に少なく、結都を含めても八人しかいない。  クラスメート達は砂宮のマルス像の話が早くしたくて、四限目の終わりのチャイムが鳴ると同時に机をくっつけ弁当を取り出す。  結都もあわてて駅前のドーナツ店で買った紙袋を開けた。 (ハニードーナツ、シュガードーナツ、どっちにしよう)  ふたつ買ったが、疲れてひとつしか食べられそうにない。 「なあ、天ヶ瀬君のマルス、先生何分かかってた?」  クラスで一番背の高い須藤に紫色の箸で指され、動揺する。  そばかすだらけの神崎がメロンパンの皮をはぎながら、結都の代わりにぽつりと答えた。 「たぶん、二十分切ってた……」 「やべえ、何がやべえって、二十分弱のアポロ像に俺、たっちゃったこと!」 『た……っ』  もぞもぞは、したけれど、た、たっては、なかった、はず。 「ちょっと古田、食事中!」  ハムチーズサンドを手に橋元が古田を軽く睨み、隣で霜尾が箸でつまんだ卵焼きを南側の窓の光に向けうっとりしながらほおばる。 「もうさあ、砂宮先生に秒、手を入れられただけで、紙からマルスが出て来たよね。輝きながら……」 「砂宮先生って、確か日展洋画部門最年少受賞者だよな?」 「そ。だからうちの父ちゃん、先生から学んで俺も最年少目指せってうっせえの。んな簡単じゃねえし、実際直で指導受けてバッキバキに心折られて、今日も気持ちよく折られた」 「真原あ、折られたのは実力だけじゃなくて、ルックスもでしょ? 学校一のモテ男」 「っせえよ、橋元!」 「しゃーないよお、神々の彫刻像が先生の前だと霞むし。先生のあの、この世のものかなと思う造形と、低くてあまあい声で、ドS容赦ない指導を耳元で受けるたびに、背中はゾクゾク、頭クラクラ、胸がキューッと盛り上がってサイズアップしちゃうもん」  大江が膨らんだ唇を突き出しミートボールにキス。ゴクリ、と男子達が唾を飲み込む。 「でも、そんな天才でイケメンの砂宮先生でも画家として食ってけなくて高校教師やってるという、リアル」 「古田、いっちゃったよこいつ……」 「俺も昨日親にいわれた。美大じゃなくてDTP習いに専門行った方が、食えんじゃねって」 「絵は好きだけど将来が見えねー」 「うちも。でも、やっぱさあ」 「そー、ずっと描いてたいんだよなあ」  ひそひそ、くすくす、同級生たちの楽しそうな声を聞きながら、結都は結局どちらのドーナツも選べず、紙袋の上部を折り、鞄の中にそっとしまった。
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