231人が本棚に入れています
本棚に追加
黒澤用のグラスに、ウーロン茶を注ぎながら、誠は音が聞こえるんではないかと錯覚するほど、暴れる心臓を宥めようと努める。
だが、これから伝えようとしていることを考えると、鼓動はさらに速度を増していく。
さすがにこれ以上、キッチンに立っていたら不自然に思われてしまうので、誠は諦めて、暴れる心臓と共に黒澤の待つ机へと向かう。
「ありがと」
「うん」
普段は、誠がお茶を出し、二人が向かい合って座ると、どちらからともなく、たわいもない会話が始まる。
でも、今日はなんだか空気が張り詰めていて、互いに沈黙してしまう。
こんな時、沈黙を破るのはいつも黒澤だ。
だけど、今日はそれではダメだ。
自分から伝えないと。どんなに緊張しても、拙い言葉でも、伝えなければならない。
誠は小さく深呼吸をしてから口を開く。
「……あの、俺、ポツ飼い続けることにしたんだ。最初はずっと自信なかった。俺なんかでポツを幸せにしてあげられるのかなって……。でも、昴に、ポツにとってもその方が良いって言われて……逃げちゃダメだって思ったんだ。離れたくないっていう自分の気持ちに素直になろうって……それで」
「また昴くん? 俺だって誠が飼い続けた方が良いって言ったことあったよね?」
必死に紡いでいく言葉が黒澤から投げやりに放たれた言葉によって遮られる。
誠は一瞬息が止まりかけたが、どうにかして酸素を取り込む。だが、うまく黒澤の言葉を咀嚼することができない。
それでも、自分の言葉が黒澤の気分を害したことだけは伝わり、不安が波紋のように広がっていく。
そんな誠の様子に、黒澤がハッとした表情を浮かべる。
「ごめん。変なこと言った……。ほんとごめん。最近の俺、ダメすぎる……」
俯きながらつぶやいた黒澤の声は、今にも消え入りそうだった。
こんな黒澤は、はじめてだ。
いつも大きくて頼り甲斐のある黒澤が、なんだか今日は小さく見える。
そんな黒澤を見ていると心臓が酷く痛んだ。こんな顔を見たいんじゃない。そんなつもりでポツの話をしたわけではないのに。
ポツを飼い続けることは、黒澤も嬉しいことだと勘違いしてしまっていたようだ。
でも黒澤の怒りの原因は、そこではないような気もする。この前から、黒澤の様子がおかしくなるのは昴が話題に出た時だ。
なぜかは分からないが……。
こんな時、今までの自分なら言葉を飲みこんでしまっていただろう。だけど、それではダメだと知った。
自分の感情に素直になると決めたんだ。
「えと……黒澤は昴が苦手……とか?」
遠慮がちに聞く誠に、黒澤は気まずそうに目を泳がせる。
「苦手とかじゃないんだ……。誠のこと一緒に探してくれたし、すごく人の良さそうな子だなって思うよ」
「じゃあなんで……? 昴のこと話すと機嫌悪くなるの、俺の気のせいじゃないよね?」
「良い子だからだよ」
「……ん?」
やはり、黒澤の言っていることは理解し難い。
良い子だから嫌い? 妬みとかってこと?
でも黒澤がそんなことで人を嫌いになるとは、到底思えない。
これまで共に過ごしてきた時間が、その可能性を否定する。
では、黒澤が昴に苦手意識を持っているのはどうしてなのだろう。
そんな誠の心の声に答えるかのように、黒澤が言う。
「良い子だから……焦っちゃうんだよ。誠を取られるんじゃないかって。今日だって、昴くんの自転車が止めてあったから焦って……家に押しかけたんだ……」
「……っ!」
あまりに予想外の言葉に、再び息が止まりかける。
血液が沸騰したかのように、湧いて熱くなるのを感じる。
黒澤の言い方は、まるで嫉妬しているかのようだ。
いや、嫉妬なのか。
──もし、もしそうだとして、それは恋愛的な嫉妬なのか?
──それとも、小さい子供がお気に入りのおもちゃを取られた時のような、そんな嫉妬なのか?
思い悩むのが特技な誠には、そんな不安がよぎる。
しかし同時に、もしかするともしかするのでは、という甘い期待も湧き上がってくる。
感情と連動して、誠の顔は赤くなったり、青くなったりと忙しい。
そんな誠の百面相を、不安げな表情で黒澤は見つめている。
「情けない理由で怒ってごめん……」
黒澤がまたも俯き、消え入りそうな声で言う。
「な、情けなくなんかない! 勘違いしそうで、ちょっと動揺してただけで……」
「勘違い?」
「いや……好きな人からそんなこと言われたら勘違いしそうになるっていうか……」
「え?」
「あ」
あれ、今さらっとすごいことを言ってしまった気がする。
「い、いまのは、ちがっ……」
言いかけて、誠はハッとする。
いや、違くない。
もう自分の気持ちは明らかではないか。
人としても、恋愛としても、黒澤のことが好きだ。
結果がどうであれ、そのことを伝えようと思っていたんだ。でも、心臓が破裂してしまいそうで、中々言い出せそうになかった。
──なら、想定外ではあるが暴露してしまった今の状況は、むしろチャンスなのでは?
誠は重たい頭を必死の思いで持ち上げ、黒澤を見つめる。
自分の周りだけ酸素が薄くなっているような気がする。
きっと顔は、茹でダコみたいに真っ赤になっているだろう。
「ちがくなくて……黒澤のこと、す……すきなんだ。結構前から」
「……は?」
誠の決死の覚悟の告白は、黒澤のそんな一言で一蹴された。
黒澤は訳が分からないといった表情を浮かべている。
いくら覚悟していたとはいえ、これはさすがに堪えた。
全身から冷や汗が噴き出す。
この反応からして、やっぱりこれまでの自分に対するアプローチは冗談だったのだろう。
この「は?」は何を本気にしてんだ、という訳に違いない。
つらい。しんどい。悲しい。
たけど、それでも、言ったこと自体に後悔はなかった。
こうなるかもしれないと分かってて、それでも伝えようと決めたのだから。
だから、最後まで、しっかりやりきろう。
心ではそう思っても、気を抜くと涙があふれそうだった。目元に最大限力を入れながら、誠は震える唇を必死に動かす。
「黒澤がそんなつもじゃないって分かってたし、だから好きにならないようにしようって思ってた。でも……無理だった。こんなに人から優しくしてもらったことなくて……。黒澤と一緒に居る時間が楽しくて仕方なかった。だから……」
「だから?」
思わず言葉を詰まらせてしまう誠に、黒澤が優しく続きを促してくれる。先程は呆れられたかと思ったが、そうではないらしい。
黒澤はやはり、どこまでも良い奴だ。
黒澤とは疎遠になりたくない。その想いを再確認し、誠は願いを込めて叫ぶ。
「……黒澤が良ければ、これからも友達でいて欲しい!」
「……ん?」
「え……だから、友達としてで良いから、これからも仲良くしてほしくて……」
「いや、なんで!?」
予想外すぎる黒澤の反応に、今度は誠の口から「は?」という声があふれる。
──え、どうゆう反応? 友達もダメってこと……?
黒澤の感情が分からな過ぎて、誠は二の句が継げない。
すると黒澤が大きなため息をついた。
また怒らせてしまったのかと、誠の中で焦りが広がる。
すると、黒澤が自身の頬を両手で叩き、誠の瞳をきつく捕らえた。
網膜を焼かれてしまうのではないかと錯覚するほどの強い視線に、誠は思わず目を背けたくなってしまう。
「誠は俺のこと好き……なんだよね? 両思いってことだよね?」
「……リョウオモイ?」
言っている意味が理解できず、思わずカタコトになってしまう。
「うん、全然分かってくれてないね。まず、さっき言ってた、俺がそんなつもりじゃないってどうゆうこと?」
「いや……だから黒澤が冗談で、俺に好きとか言ってて、本気じゃないっていうのは知ってたって意味で……」
誠が言い終わらない内に、黒澤は全身から出しているような、大きな大きなため息をつく。
誠はもう何が何やらで、あわあわとしてしまう。
「なんで冗談って思うかなーー。本気でしか言ったことないんだけど」
予想外の出来事の連続に、誠の頭には何一つ言葉が入ってこない。まるで外国語を聞いているかのようだ。
黒澤が俺のことを好き? 本気で?
そう言われても、全く実感が湧かない。それに、喉に引っかかって中々取れない魚の小骨のように、ずっと心に引っかかっていることがある。
その骨が取れるまでは、どうしても信じることができない。
あのスーツを纏った高身長の男が、脳裏にチラつく。
「……でもお前、嘘ついたじゃん……」
「え? 待って、なんのこと?」
「とぼけるなよ……。セ、セフ、セフレと切ったとか言って、切ってなかったじゃん……!」
なんだか思ったより子供っぽい言い方になってしまった。この前は怒りに任せて言えたが、セフレという単語を発するのが、どうしても恥ずかしい。
──てか、じゃんってなんだよ……。じゃんって……。
誠はなぜか自分がダメージを受け、顔を上げることができない。
しかし、自分の意思と反して、黒澤と視線が交わる。
両頬に添えられた黒澤の手によって。
「誠、ちゃんと説明して。絶対なんか勘違いしてる。どうしてそう思ったのか、ちゃんと教えて」
黒澤の瞳は綺麗だ。自分の全てを受け入れ信じてくれる、そんな風に思わせてくれる。
そして、今両頬を優しく包み込んでいる手は、暖かくて優しい。自分を守ってくれる、そんな風に思わせてくれる。
もしかしたら、自分の勘違いなのかもしれない。
黒澤の瞳が、手が、誠にそう思わせた。
「この前、たまたま居酒屋で見たんだ……。黒澤がセ、セフレと肩組んでるとこ」
「あ……あの時か……。あれは酔ってたから、タクシーまで肩貸してただけだよ」
「……そ、そもそも関係切るって言ったのに会ってること自体がおかしいじゃん……」
また拗ねた子供みたいな言い方をしてしまった。
「……いや、あれは……」
黒澤は気まずそうに目を逸らす。
「なんだよ。やっぱりやましいことでもあるのかよ……」
「いや、ちがうって!」
「じゃあ言えよ」
今度は誠が黒澤の瞳をきつく捕らえる。
お願いだから自分の勘違いであることを証明してほしい。
今はそんな風に思う。
その気持ちが伝わったのか、黒澤は覚悟を決めたかのように頷いた。
「恥ずかしながら、誠のこと相談してたんだ……」
「え?」
そこから黒澤は、春樹さんとの関係についてゆっくりと話してくれた。言葉では表せない二人の関係性について。
春樹さんに対して、何も感じないかと問われるとイエスとは言い難い。でも、喉につっかえていた骨は、やっと取れた気がした。
黒澤は嘘をついていたわけではなかった。
それだけで誠にとっては十分である。
同時に、自分が勘違いでへそを曲げていたという事実に、じわじわと恥ずかしさが生まれてくる。
そしてそれは、次の黒澤の言葉によってトドメを刺される。
「……てかさ、誠は春樹に嫉妬してたってこと……?」
「え」
あれ、たしかに。
もちろん、嘘をつかれたと思ったからショックを受けたのも事実だ。
でも、そもそも、黒澤と春樹さんは二人で居ただけで、ホテルから出てきたわけではない。
ただ、居酒屋から出てきたところを見て、セフレの関係を続けてると思うのは、早とちりすぎないだろうか?
本当に自分は嘘をつかれたことにショックを受けていたのだろうか。
多分、それだけではなかった。
──嫌だったんだ。黒澤が自分ではない誰かに触れているのが……。
自覚した瞬間恥ずかしくて死にそうになる。穴があったら入りたいとはこういう時に使うんだろう。
そんな誠とは対照的に、黒澤は何故か満面の笑みを浮かべている。
「どうしよ……。嬉しい」
「……え?」
「誠が嫉妬してくれるなんて、本当に嬉しい……。俺だけだと思ってたのに……」
やはり、黒澤は昴に嫉妬していたようだ。
でもそれはどんな意味で?
先程は飲み込んだこの疑問を、誠は意を決して投げかける。
「もしかして、黒澤は昴に嫉妬してた……?」
「うん。もう本当に気がおかしくなるくらいね」
なんて言い方するんだ……こいつは……。
「そ、それはさ……その……どうゆう意味での嫉妬?」
「え? どうゆう意味って?」
「だから、友達としてなのか……れ、れんあい的な意」
「恋愛的に決まってるでしょ」
誠が言い終わらない内に、黒澤は即答した。
足元からじわじわと熱が迫り上がってくる。
心臓が動きすぎて痛い。
リョウオモイ、りょうおもい、両思い。
やっとその言葉の意味を理解する。
そんな誠に気づいたかのように、黒澤は問いかてくる。
「もう一回聞くね。誠は俺のこと好きなんだよね? 両思いってことだよね?」
「……うん」
もっと声が震えるかと思ったが、意外とすんなりと声が出る。
「俺、黒澤が好き。大好きだ」
こんなに緊張しないで言えたのは、多分ずっと言いたかったからだ。
本当は黒澤に伝えたくて仕方なかったんだ。
この暖かくて、優しくて、激しくて、痛くて、愛しい感情を。
「うわ、どうしよ。信じられない。本当に本当? 夢じゃない?」
まるで自分の気持ちを代弁するかのように黒澤が呟く。
よくよく考えると不思議だ。勘の鋭い黒澤が、どうして誠の気持ちには気づかなかったのだろうか。
自分で言うのも癪だが、自分は感情が表に出やすく、誤魔化すのが下手だ。きっとわかりやすい反応ばかりしていただろう。
だから昴にもバレたのだ。
それなのに、黒澤が気づかなかったのは、なんだか変に思う。
「信じられないって……。俺、割と分かりやすくなかった?」
「……まぁ、今思えばそうなのかも。でも……俺……誠のことに関しては何も自信がないんだよ。余計なこと言っちゃったんじゃないかとか、嫌われてないかとか、そんなことばっか考えてた……。だから、俺のために嫉妬してくれてたとか全然思わなかった」
その言葉に、誠の凝り固まっていた心がほぐれていく。
──なんだ。一緒じゃん。
黒澤の不安はそっくりそのまま、誠も感じていたものだ。
そう思うと、やっと実感が湧いてきた。
本当に黒澤は自分のことが好きなんだ。
不安で、苦しくて、それでも好きでいてくれたんだ。
「俺も同じだよ……。黒澤のことが好きだからこそ、今の関係が崩れるのが怖くて……。ずっと自分の気持ちを否定してた。嫌われたくないって気持ちで一杯だった……」
誠がそう言うと、黒澤は静かに微笑んだ。
「なんか馬鹿みたいだね。俺たち二人とも気を遣いすぎて、逆に傷つけ合ってたんだ。でも、好きになるってそうゆうことなのかもね」
「え?」
「好きだからこそ嫌われたくないって思いが先行し過ぎちゃうんだ。それはきっと悪いことではないんだろうね。でも、そこから進まないとダメなんだと思う。信頼してるからこそ、どんなことでも言える関係、誠とはそんな風になりたい」
すごい。黒澤はやっぱりすごい。
想いがあふれて止まらなくなる。
「うん。俺もそうなりたい。何でも言って欲しいし、何でも言いたい。それで……ずっと一緒に居たい」
もう心臓は落ち着いている。体温も正常だ。それなのに、黒澤への想いは募るばかりだ。
不思議な感覚だ。
黒澤への想いは甘くて激しくて幸せで、でも同時に苦くて辛くて、漠然とした恐怖感があった。
でも、今はそれがない。
もう黒澤とは離れたくないし、離す気もない。
「誠、ありがとう。大好きだよ」
黒澤の瞳が、潤んでるような気がしたが、すぐに確認できなくなる。
抱きしめられて顔が見えなくなったからだ。
誠は気持ちを返すかのように、黒澤の背中へ腕を回し、抱きしめる。
──ありがとうはこっちのセリフだ。
最初のコメントを投稿しよう!