嫌いな隣人

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「へぇー。男なのに綺麗にしてるね」  誠の部屋をきょろきょろと見渡しながら、黒澤が感心したようにつぶやく。黒猫はもう大分落ち着き、黒澤の腕の中で安心しきった顔をしている。  しかし、黒澤が黒猫を降ろそうとしゃがみ込み、静かに手を離すと、  ダダダダッ!  黒猫は床に足をつけるなり、全速力で駆け出し、青いカーテンの裏へと隠れてしまった。  驚いて目を丸くしながらカーテンの方を見つめている誠を他所に、黒澤は落ち着いた足取りで、本棚と最低限の服、シングルベッドしかない誠の部屋の中心にある、背の低い机へと向かっていく。 「まぁ、最初はこんなもんでしょ。とりあえず座って座って」  いや、俺の家だよ、と心の中でツッコミつつも、家についてきてくれたことには素直に感謝する。とりあえず茶を出すことにしようと、キッチンにの方に身体を向ける。歩みを進めようとした瞬間、身体の重心がぐんっと後ろに傾く。  黒澤が誠の手首を引っ張ったのだ。 「待って、とりあえずさっきの怪我、治療しないと。消毒液とかある? あ、でもとりあえず水で洗わなきゃか」  黒澤はそう言うと、今度はパッと手首を離した。  ─な、なんなんだよ……。びっくりした……。  誠は早足にキッチンへと逃げる。  一人だったら放っておく程度の怪我だが、なんとなく黒澤に従っておこうと思い、右腕の肘から前腕中央あたりまでの、引っ掻き傷を丁寧に洗う。  しかし、一人暮らしの男の家に消毒液などない。かろうじてあった大きめの絆創膏を貼ろうとした時、ぐんっと、今度は上の方に手首を引っ張られた。  振り返ると、机に座っていたはずの黒澤が、背後にもの言いたげな表情で立っていた。 「ちょっと、消毒してからだってば。ないなら俺の部屋から持ってくるからちょっと待ってて」 「いや、これくらいほんと平気なんで」 「だめだよ。捨て猫だし、どのくらい外いたか分かんないし。なんか菌とか入ったら大変だよ。とにかく待ってて」  そう言って、黒澤は誠の手を放すと、隣の自分の部屋へと向かっていった。  不思議と、引っ掻き傷より、掴まれた手首の方が、痛いくらいに熱かった。  数分も経たない内に、黒澤は消毒液とコットンを持って、再び誠の部屋へと戻ってきた。  どうしていいか分からず、その場に突っ立ったままだった誠の横を通り過ぎ、黒澤は机の方へと向かう。そして腰を降ろすと、手招きし、誠にも座るように促す。  そんな黒澤になぜか抵抗できず、誠は素直に従う。 「腕、出して」 「え、いや、自分でやるから平気です」 「怪我したの右腕だし、やりにくいでしょ。やったげるから腕出しなって」  そう言いながら手首を引っ張られ、誠は本日三度目のぐいっと身体が傾く感覚を味わった。  黒澤は、男らしい手からは想像できないほど、優しく、丁寧に、湿らせたコットンで誠の腕の傷口を撫でる。大きく、骨張っているが、指先は細長く、美しい黒澤の手に、誠は思わず息を呑む。黒澤は誠が手に持ったままだった絆創膏を取り上げると、これまた優しく丁寧に傷口に貼ってくれる。 「はい! おっけー」 「あ……色々とありがとうございます。今、お茶入れますね」  いつの間にか終わっていた優しく丁寧な治療に戸惑いつつも礼を言うと、なんだか気まずくなり、逃げるように再びキッチンへと向かう。  冷蔵庫に入っていた烏龍茶をグラスに注ぎながら、小さく深呼吸をする。力が入りっぱなしだった身体が少しだけ解れたところで、部屋へと戻る。  自分の部屋なのに、なんだか、はじめての空間にいるような、不思議な緊張感がある。 「ありがと。てか志田くん、なんで敬語なの? 俺達、同い年だよね?」 「え」  誠の口からは思わず、驚きの声が漏れる。部屋が隣ということから、さすがに存在くらいは認識されているだろうとは思っていたが、名前、さらには学年までも知られていることには驚いた。  優れた容姿、高いコミュニケーション能力を持ちながらもゲイである、ということから、黒澤は学内でも非常に有名だ。そんな黒澤がなんの特徴もない自分のことを知っているというのは意外だった。  驚きのあまり、できてしまった間を埋めるように、誠は慌てて言う。 「あ、いや……。俺のこと知らないと思ってた……。黒澤くんは有名だけど」  それを聞いた黒澤は面白いおもちゃを見つけた子供のように、どこか楽しげな表情を浮かべ、誠の真っ黒な瞳を見つめる。 「志田 誠くん。文学部・日本文学科の一年。前から可愛い顔だなって気になってたんだ」  その言葉を聞き、誠は思わず含んでいたお茶を吹き出しかけた。なんとか耐えたものの、気管に入り咽せ返ってしまう。 「ちょっ、大丈夫? なに、別に取って食ったりしないって」  腕で口を押さえながら咳き込む誠に、黒澤は心配しつつも、やはりどこか楽しげな表情だ。 「へ、変なこと言うからっ!」 「変なことって。別に事実言っただけなんだけどなー」 「その事実が変なんだよ!」  誠は顔を真っ赤にし叫んだ。  こいつやっぱり嫌いだ!と思いつつも、いつの間にかタメ口になり、大声を出していたことに気づく。 「まぁでも、志田くんのそれくらいの基本情報しか知らないわけで。猫もしばらく出てこないみたいだし、まずは俺たちの仲を深めようよ」 「いや、それ飲んだら帰ってよ……」 「でも猫の撫で方とか、抱っこの仕方とか、餌のこととか色々教えた方がよくない?」  ─うっ……。それはたしかに……。  微妙な表情をし、返答に悩んでいる誠に黒澤はさらに畳み掛けてくる。 「やっぱりネットの情報とかより、実践が一番良いと思うしさ。それに一度連れて帰ろうと思ったなら責任持って世話しなきゃ。俺でよければいくらでも手伝うし」 「手伝うって……。てか黒澤くんの家で引き取ることは無理なの? 俺も別にずっと世話しようと思ってたわけじゃないし……」 「んーそれは無理。家にしょっちゅう来る奴が猫嫌いでさ。そいつ居ない時に預かるくらいならできるけど」  その言葉を聞き、誠の頭にはすぐ、今朝、過度なスキンシップを取っていた男の顔が思い浮かんだ。 「……それって今朝ハグしてた人のこと?」 「……ぷっ! はははははっ!」  呆れた表情で呟いた誠を見て、黒澤は綺麗な顔をくしゃくしゃにし、口を大きく開けながら、なぜが爆笑しだす。黒澤の感情が全く理解できず、誠は思わず顔をしかめる。 「え、ちょ、別に笑うようなこと言ってないんだけど……」 「だって志田くん、今朝と全く同じ顔してる! うわ、なんだこいつって感じの、その表情、素直で好きだよ!」 「……なっ!?」  ─こいつ好きとか軽々しく言いやがって……!  誤作動する心臓に焦る誠を他所に、黒澤はそのまましばらく笑い続けていた。 「こんな笑ったの久しぶりだよ! ますます志田くんと仲良くなりたくなっちゃった」 「いや、俺は別に...」 「とりあえず明日、猫の餌とか一緒に買いに行こうよ! 今日は警戒して何も食べないだろうし。トイレとかも必要だしさ! ホームセンター何時からだろう」  黒澤の距離の縮め方は新幹線レベルのようだ。誠の話をまるで聞かず、勝手にどんどんと話を進める。  やはり苦手だ、と思う反面、こういう所が友人の多い理由なのだろうな、と思ったりもする。時には強引なくらいの方が人間関係って上手くいくもんだ。しかし、それを知っていたところで、実行できるかどうかは別問題である。  残念ながら、自分には絶対無理だ。  ネガティブな自分空間に陥っていた誠を、黒澤の弾んだ声が呼び戻す。 「え、志田くん、ステップ好きなの?」 「大好き!」  幼い頃から大好きな少年コミック誌の話題を振られ、誠は思わず即答してしまう。どうやら黒澤は床に置きっぱなしだった今週号の『ステップ』を見つけたようだ。 「えっ、今日いち良い顔じゃん! 俺も毎週買ってるよ! 特にヒーロー対戦が大好きなんだ。王道だけどバトル展開まじで熱いよね」 「分かる! ヒーロー同士が戦うっていう設定も面白いけど、それぞれの性格と技が合ってるし、その中で熱い友情とか、家族ドラマとかも描かれてるし、読み応えがすごいよな」  あ、しまった、と思った頃にはもう遅く、興奮気味で早口で言った誠を、黒澤はニヤニヤと見つめている。 「俺達、趣味も合うみたいだね」  ()ってなんだよと思いつつも、たしかにステップ、特にヒーロー大戦について語れる人は貴重だった。  中学、高校時代、友人が居なかったことからハマった漫画だが、上京してからは、それを表に出さないようにしている。  オタクは嫌われるのではないか、と懸念してのことだ。とにかく自分は周囲と少しでも異なる存在になることが怖くて仕方ないのだ。そんな臆病な自分が心底嫌になる。  暗い思考に陥る誠とは対照的に、黒澤は相変わらず楽しそうに続ける。 「そうだ! 明日ちょうどステップの発売日だし、猫の諸々買ったら、二人で読んで語ろうよ!」  黒澤の距離感はやはりバグっているようだが、正直、それは誠にとっても中々惹かれる提案だった。  それごときで、と思うかもしれないが、素晴らしい作品を読んだ時、人間はどうしても誰かと感動を共有したくなるものだ。それに、明日発売のステップはヒーロー大戦が表紙であり、物語のキーポイントとなる回になるのではないかとネットで噂されているのだ。  ─まぁ、猫の世話に必要なものも、たしかに全く分からんしな……。明日だけなら……。必要最低限の物だけ買って、ヒーロー大戦について少しだけ語ったらすぐ解散しよう!  自分でも意外だが、黒澤と買い物に行く方向で思考が巡っていく。 「……まぁ、明日だけなら」 「よし! 決まり! じゃあ一〇時にピンポンするね!」  ─ピンポンって。小学生かよ……。  そう思いつつも、アイドルのようにくっきりとした二重の瞳がなくなるほど、満面の笑みを浮かべている黒澤の様子を見ると、悪い気はしなかった。  こいつはこうやって多くの人の心を奪ってきたんだろう。 「あ、出てきた」  黒澤の声に、誠も視線を同じ方向に向けると、カーテンの前で黒猫が小さく丸まって、寝息を立てていた。 「こっちも警戒解いてくれたみたいだね。そんじゃあ、そろそろ俺も自分の部屋戻るわ」  ()()()()という言葉が気になりつつも、帰ってくれるなら万々歳だと思い、誠は何も言わずに見送る。  部屋を出ていく時、黒澤は振り返りながら、爽やかな笑顔と共に 「明日、楽しみ。黒猫とも志田くんとも仲良くなれるように頑張るね」  と、そんな馬鹿げた言葉を置いていった。  
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