嫌いな隣人

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「ニャー!」 「……え!? あ……夢じゃない」  猫の鳴き声で、飛び起きた誠の口からは、思わず心の声が漏れ出た。同時に、昨日の出来事が頭の中を巡っていく。  捨て猫に出会い、そこで黒澤と遭遇し、共に家に行き、治療され、なぜか一緒に遊ぶ?約束をした。思い返せば、思い返すほど、不思議なことの連続で、現実の出来事か不安になる。  しかし、目の前にいる黄色い瞳以外、全身を漆黒の毛に包まれた黒猫が、夢ではないことを証明している。  猫を拾ったことは現実のようだが、黒澤の買い物の誘いは本気なのだろうか。  そう思いつつも、とりあえず出かける準備だけはしておくことにした。黒澤の誘いが冗談だったとしても、どっちみち黒猫の餌も、ステップも買いに行かねばならない。  誠は顔を洗い、胸元にポケットがついた白いTシャツにジーパンという、おしゃれでもダサくもない無難な格好に着替えた。小腹を満たすため、常備している銀紙に包まれたチョコレートをつまんでいると、ちょうど約束していた一〇時になった。  その瞬間、インターホンのチャイムの音が鳴った。  誠が恐る恐る右手でドアノブを捻ると、遊園地に行く前のワクワクした子供のような表情の黒澤が立っていた。 「おはよ! 楽しみで時間ぴったりに来ちゃった。猫もお腹空いてるだろうし、さっそく行こっか」 「……う、うん」  黒澤が本当に来たことに困惑しながらも、誠は黒のスニーカーに足を入れ、部屋の外へと踏み出した。  いつもは感じない、太陽の匂いがする初夏の風を感じた。 「ねぇ、呼び捨てで呼んでも平気? 俺のことも呼び捨てでいいからさ! てか、そっちのが嬉しい」  話すことなんてあるかなと思っていたが、さすが陽キャ。すぐに話題を提供してくれる。 「ん。呼び捨てで平気」 「ありがと。志田って身長何センチ?」 「なに急に……。一六五だけど……」 「その言い方は、小さいの気にしてるね」 「小さいって言うな。黒澤は、一八〇くらい余裕でありそうだな」 「うん。去年測ったら、一八五? だったかな」  天は二物を与えず、なんて嘘だなと思いながら、誠は恨めしそうに黒澤の頭からつま先まで、視線を降ろした。  ─この顔のちっちゃさ、足の長さ、モデルかよ。 「志田、好きな食べ物は?」  そんな誠の様子には目もくれず、黒澤は次々と質問してくる。 「んーチョコレートかな」 「甘いの好きなんだ! 可愛い。俺はね、ハンバーグかな」  ─こいつ、また可愛いとか言いやがって……。てか、ハンバーグの方が可愛いだろ!  困惑しつつも、いちいち反応していたら、キリがないと思い、誠は小さく深呼吸をしてから会話を続ける。 「俺は肉より魚の方が好きかな」 「えー! なんか大人って感じ!」 「魚好きだったら大人ってなんだよ……」 「なんか渋くてかっこいいじゃん。志田が好きなら俺も魚派になれるように頑張ろ 」 「なにそれ……」 「やっぱ好きって気持ちは、共有したくない?」  そう言って微笑み、首を傾ける黒澤に、思わず心臓が怪しげな音を立てる。  黒澤は本当に、人の懐に入る才能があるようだ。くだらない会話の中に、いちいち含まれる、たらしっぽい言葉に反応しないよう警戒しながら、誠は黒澤との会話を続けた。  雑談を交わしながら、一〇分ほど歩いたところで、真っ白に塗装された四階建ての大きなホームセンターの前に着いた。 「お! 話してたらあっという間だね。とりまペットコーナー行こっか」  黒澤はただのホームセンターに、目を輝かせながらそう言うと、なぜか誠の手首を引っ張った。  さも当たり前かのように、自然に引っ張ったのである。  思いがけない黒澤の行動に、誠は焦りを隠せない。 「ちょ、おい! な、なんで掴むんだよっ!」 「ごめんごめん、つい癖で」  黒澤は本当に無意識だったようで、何事もなかったかのように、誠の手首をパッと離すと、軽快な足取りでペットコーナーへと歩みを進めていった。  どんな癖だよ、と思いつつも、誠は黙って黒澤の後を追いかけた。       「俺の実家では朝、夜はウェットフードで、昼はドライフードあげてたかな。あとおやつでチュールは必須だよね」  目の前に広がる夥しい種類の猫の餌と、黒澤が発した言葉に、誠は思わず目を丸くする。 「え、ドライフードだけじゃダメなのか……。てか、餌にも結構いろんな種類あるんだな……」 「昨日母さんに聞いたら、ドライフードだけでも平気だけど、ウェットフードだと水分も一緒に摂れるから、できたらウェットフードもあげた方がいいって言ってたよ」 「なるほど……。てか、わざわざ聞いてくれたんだ。ありがと」  黒澤の気遣いに、やや疑問も感じたが、口から出たのは純粋な感謝の言葉だった。  黒澤が共に来てくれている安心感と、感謝の気持ちを、しみじみと感じていたからだ。  一人だったら、間違いなくGoogle先生に頼りっきりだっただろう。 「志田はえらいね」  黒澤は少し驚いた表情を浮かべた後、目を細め、つぶやくようにそう言った。  今のどこにえらい要素があったのだろうか。この状況で礼を言うのは当たり前だ。黒澤の周りは、そんなに変な奴ばっかりなのだろうか。  全く理解できず、眉間に皺を寄せながら「どこが?」と問うと、黒澤は微笑む。 「そんな真っ直ぐに感謝の気持ちを言える人ってあんま居ないんだよ」  今まで見た太陽のような笑顔とは異なる、優しく静かな微笑みに、不思議と胸がキュッとなった。  しかし、次の瞬間には、黒澤は、子供のようにはしゃぎながら、猫のトイレコーナーへと向かって行った。  なんだか、胸を締め付けれた自分が、恥ずかしいやつのように思えた。 「よし! これで猫の買い物は終了! コンビニ寄って、ステップ買って帰ろう!」  ホームセンターのロゴが入った袋を両手で持ちながら、黒澤は楽しそうに言う。  ステップを一緒に読もうという話も覚えててくれたことに、心臓がふわっと浮かんだような感じがした。  その心臓が空まで飛んで行かないように、おもりをつけることを忘れてはならない。  黒澤はゲイだが、やはり自分とは人種が異なる。実際に話してみてさらに強くそう思った。  誠には黒澤のように自分の感情に素直に行動したり、他人の感情を読み取ったりすることはできない。だからこそ、周りからの評価が気になるし、ゲイであることなんて恐ろしくて誰にも言えない。  黒澤が自分のセクシュアリティを公表しても、人気者で居られるのは、彼の一種の才能のようなコミュニケーショ能力の高さからだろう。人見知りの誠とも、知り合った次の日に遊ぶほどだ。そこには素直に尊敬の念も抱く。  だからといって、自分に同じ行動は絶対できない。そんな自分のダメさ加減を痛感させてくる黒澤のことは、やはり苦手だった。  これは多分、嫉妬なんだろう。  自分に全てを曝け出せる相手が居ないのは、同性愛者であるということだけではなく、そもそもの臆病な性格のせいである。黒澤を見ているとそれを認めざるを得ないのだ。  そんな現実から逃げたいから、黒澤とはなるべく関わりたくない。  ─猫のことで、どうしても分からないことは聞くとしても、それだけにしよう。多分仲良くなりすぎると、ダメになる。  誠は本能的にそう感じていた。  家から一番近いコンビニでステップを買うと、二人は誠の部屋へと向かった。  家に着くとすぐ、買ったばかりの青い餌入れを袋から出し、一度洗ってからウェットフードを乗せ、誠は恐る恐る黒猫の前に差し出す。 「ほら、餌だよ」  誠がそう言うと、黒猫は一瞬、警戒した様子で餌を見つめ、クンクンと匂いを嗅いだ。そして、食べ物だとだと分かると、勢いよく食べ始めた。 「わ……すっごい食べてる」  必死に餌を食べている黒猫の可愛さに、思わず口角が上がってしまう。しゃがみ込んで、黒猫の様子をじっと見ていると、上から黒澤の声が降ってくる。 「よかったね。餌あげてれば徐々に懐いていってくれるよ」 「うん。そうだといいな。でもとりあえず引き取っただけだし、貰い手、探さないとな」 「もういっそのこと志田が飼っちゃえば? 俺も手伝うし」 「いや、家空けることも多いし、そんな気軽に飼えないよ」  衝動的に拾ってきた自分を顧み、どの口が言うんだとは思いつつも、その分、責任を取って良い飼い主を見つけてあげたいとも思う。 「まぁ、でも慌てずにさ、最初は俺達で世話してみようよ。きっと良い刺激になってくれるよ」   ─俺達……? 刺激……?  黒澤の口から色々と気になるワードが飛び出し、誠は閉口してしまう。どこからツッコもうかと思っていた時、足元に、くすぐったい感覚を覚えた。  感覚の基へと視線を向けると、餌を食べ終えた黒猫が、誠の足に頭を擦り付けているところだった。 「……っ!」  あまりの可愛さに誠は言葉を失った。キュンキュンなんて言葉じゃ足りないほど胸が締め付けられ、この子は世界一可愛いのではないかと、本気でそう思った。  恍惚とした表情で黒猫を見つめる誠の上から、再び声が降ってくる。 「その子も志田と同じで、ちゃんとお礼が言えるみたいだね。いい子だ」  また変なこと言ってるなと思いつつも、あまりの黒猫の可愛さに黒澤の言葉など、右から左へと通り抜けていった。  しばらくすると黒猫は満足したのか、スヤスヤと眠り出した。その様子を誠は飽きることなく見つめる。  完全に黒猫に心を射抜かれてしまったようだ。  それは、「読まないの?」と、黒澤に言われるまで大好きなステップの存在を忘れるほどだった。しかし、いざ読むと心はすぐにヒーロー大戦へと持っていかれた。 「まって、今週やばくない……? これってヒロの父親がロウだったってことだよね!? え、ってことは仇の相手が実の父親だったってこと!?」 「ちょ、志田、落ち着いて」  興奮して身体を机から乗り出しながら、語る誠に黒澤が笑いを堪えながら言う。 「あ、ごめん。つい、興奮して」  自分のはしゃぎっぷりに、思わず誠は頬を赤らめる。 「いや、分かるよ。確かにこれは今までで一番予想外の展開だね」 「だよな! 俺の予想ではヒロの父親は……」  その後、二人は一時間ほどヒーロー大戦について熱く語り合った。単行本を持ってきて、解説しだすほど、誠も熱くなった。 「はぁー。語った語った。来週も楽しみだ。語る相手いて良かったわ」  そして、思わず誠の口から出た言葉は、黒澤とは関わりすぎないという決心とは、正反対なものだった。余計なことを言ってしまったと思った時にはもう手遅れで、黒澤はその言葉を待っていたかのように、笑みを浮かべている。 「じゃあステップが発売日の毎週火曜は語ろうよ。もちろん火曜以外も猫の手伝い来るけど。てか、猫の名前決めないとだね」 「え、毎週!? ちょっ待っ」 「そういえばさ、志田はなんでこの子拾おうと思ったの?」  誠の思考が追いつく前に、黒澤は問いかけてくる。 「え……えっと、なんか親近感湧いたから」  思考が追いつく前に問いかけられたせいで、誠は思わず、そんなことを言ってしまった。  捨て猫に親近感って……。  気持ちの悪い自分の思考には、心底うんざりする。 「親近感ってどのへんに?」  ここまできて変に嘘をつくこともできないか、と思い、誠はヤケクソで言う。 「なんか、暗闇にポツンって居た感じとか」  暗すぎる思考に、自分でも馬鹿らしいと思った。  被害妄想が過ぎて、気持ちが悪いと思う。  まぁ、でも、引かれるならそれはそれでいいではないか。所詮、自分とは生きる世界が違うやつなのだ。そのことを黒澤も理解するべきなのである。  しかし、そんな誠の予想に反し、黒澤は何か閃いたような明るい表情を浮かべる。 「そうだ! じゃあ名前はポツにしよう! 暗闇にポツンといたからポツ! 呼びやすくてなんか良くない?」  沈黙。黒澤の斜め上すぎる発想に、誠は一瞬思考が停止する。しかし、次の瞬間には、思わず耐えられず、「ぷっ」と口から空気を吹き出した。 「……ポ、ポツ? ……っはははっ! 何だよっその変な名前!」  自分の暗い考えがバカらしくなるほどの、黒澤のネーミングセンスに、笑いが止まらない。  ─普通、そこから名前つけるか? さすがにここまで能天気だと面白すぎる。  誠は上京してから一番ではないかと思うほど、笑った。漫画を読んでても、テレビを見ていても、大学の友人と話していても、ここまで笑った記憶はない。  心の底から笑えたのは久しぶりな気がした。 「ちょ、笑いすぎ! 良い名前じゃんか! ねっ! ポツ!」  黒澤が誠の横で寝ていた黒猫に問いかける。すると、黒猫はめんどくさそうに目を開け、少し顔を上げながら「……ニャーっ!」と、元気よく鳴いた。 「「……ははははっ!!」」  誠と黒澤はたまらず、同時に笑い声を上げた。 「名前、決定だな」  笑いすぎで涙目になりながら言った黒澤の言葉に、誠は同意せざるを得なかった。  そんなこんなで、俺と黒澤とポツの、奇妙な二人と一匹の生活が始まったのである。
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