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「なあ知ってるか」
夕暮れ時、薄っすらと暗くなり始めた滑走路の整備の手伝いに駆り出された一斉は、近くでショベルに片手を置き汗を拭っている七於に声をかけた。
「ん、何をだ?」
土の付いたままの手で汗を拭ったのか、七於は頬を黒くして一斉へと顔を向ける。
「今日って夏至らしいぞ」
「げし……?」
どうやら頭の中で漢字に変換されていないような七於の様子にクスッと笑いながら教えてやる。
「夏至、夏に至るって書くやつな」
一斉に言われてピンと来たのか、ようやく七於も「ああ」と返事をしながら続けた。
「よく知らないが、昼が一番長いんだろ?」
「そ。一年の中で最も太陽が沈むのが遅い日が今日だ」
日本ではな。と一斉は付け加える。
「どういう意味だ?」
少し眉根を寄せて思案気な表情を浮かべた七於へ、一斉はショベルを片手に持ち天上を指差した。
その指の動きにつられるようにして七於が空を見上げる。
夜の帳と暮れゆく太陽が拮抗して大空のキャンパスは桃色と藍紫色の美しいグラデーションで彩られている。
「ここ、ラバウルみたいな南半球だと、今日は昼が一番短いんだ」
「……つまり、冬至みたいなもんってことか?」
今度は顎に手をかけて無精髭を生やしたみたいに黒くした七於がそう言った。
「そうなんだけど、ちょっと七於」
堪えきれず一斉は吹き出しながら自らの首に下げていた手拭いを手に取り、汚れていない部分で七於の顔を拭った。
「わ……ぷ」
「七於、お前芋掘りしてるガキみたいになってるぞ」
笑いながら言うと、手拭いで擦られたからだけではない赤みを頬に差しながら「言ってくれたら自分で拭いたものを……」などと照れ隠しにぶつくさ呟いている。
「……ラバウルじゃいつだって昼が長くて暑くて毎日真夏だから、夏至だの冬至だの言われてもしっくり来ないよなあ」
そんな七於の様子を眺めつつ一斉も空を見上げて呟いた。その呟きをかき消すように一羽の鳥が高らかな鳴き声を上げ近くの椰子の木から飛び立った。
「一斉」
「ん?」
七於に呼ばれて見上げた顔を下ろすと不意に鼻先を軽くつままれる。
「んぐっ」
喉の奥から空気が漏れるような間の抜けた声が出て一斉は首を振って七於の手から逃れた。
「何すんだっ」
恨みがましく七於を見やると、いたずらっ子のような笑みを浮かべて「仕返しだ」などと言う。
「なあ、一斉」
ふと視線の奥に甘やかな光を宿した七於が、先程の少年のような笑みとは異なる柔らかな微笑みを浮かべて一斉を呼んだ。
「なっ、なんだよ」
急に雰囲気の中に暮れゆく空と同じ桃色の気配を纏わせた七於に呼ばれた一斉は湧き上がる初心な動揺を隠しきれない。
……芋掘り少年のくせに。俺の方が年下だけどっ。
心の中で一斉が息巻いているとも知らずに七於は続けた。
「これ、整備作業が終わったらさ、浜辺に行こう」
「え?」
急にまたどうしてだろう。一斉が小首を傾げると七於はショベルの柄を持ち、持ち場に戻るように一斉へと背を向けながら言った。
「今日はラバウルで一番陽が短いんだろ。……お前と一緒に、一年で一番昼が短くて長い夜を過ごしたい……」
「な、なんだそれ……」
何気障ったらしいこと言ってんだ。そう言おうとした一斉は口を噤んだ。
夕陽に照らされた七於の耳殻はほんのりと赤らんでいて、だからもう一斉は「うん……」と同じように声を染めて応えるしかなかった。
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部隊長の呼び声で滑走路の整備作業は終了となった。
隊の仲間と共に集まり整列していると、不意に部隊長が一斉に目を止めた。
「……犬鳴」
「はっ!何でしょうか!」
「お前、どこで泥遊びしてきたんだ」
「へ……?」
泥遊びなんてしていない。七於と違いこまめに手拭いで拭っていたし、事業服もそこまで土に塗れてなどいない。
一斉が呆けていると横にいた山口が小さく吹き出した。
何笑ってるんだ、と一斉が言おうとした直後、部隊長が言葉を続けた。
「ちゃんと作業してたなら良いが、お前その鼻じゃ名前の通り犬みたいだぞ」
「えっ?」
まあいい、山口、教えてやれ。
そう言い残し、部隊長は解散の挨拶をして去っていった。
「山口っ!」
部隊長が歩き去ると同時に隣に並んでいた山口に声をかけると、山口は「アハハ!」と声を上げて笑い出した。
「だーかーらー!」
一斉が憤慨したように言うと、
「ごめんごめん、ぷっ、いや、犬鳴……お前、鼻……」
そう言うと再び山口は顔を背けて笑い出す。
「俺の鼻がどうしたんだよ」
眉根が寄るのを感じつつ鼻を擦ろうとした時、山口がにゅっと何か差し出してきた。
「ほら、鏡」
「なんでお前鏡なんて持ってんだよ」
「妹に貰ったんだ。御守り代わりって」
そんなことはいいからさっさと鏡見ろ。と山口は一斉の手に小さな手鏡を握らせた。漆塗りなのか艶やかな漆黒の背面には赤と桃色の可憐な花が描かれている。渡された鏡を汚さないようにそっと持ち顔を映すと、
「っ!?」
そこには鼻の頭に土を付けた自分の顔が映っていた。正月に羽子板で勝負をして兄たちに墨で髭を描かれた記憶が蘇った。
「七於ーッ!」
手のひらでゴシゴシと鼻先を拭い一斉は吠えた。何が浜辺に行こうだ、チクショウ!
山口に手鏡を返して一斉は顔を赤くしながら整備員たちの宿舎に向かって走った。
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「悪かったって、なあ」
その後、宿舎の入り口で一斉を迎えに行こうとしていた七於と鉢合わせた一斉は、その胸に向かって正拳突きを食らわせた。
咄嗟に七於が一斉の拳を受け止めたため大した威力にはならなかったが、怒っていることは伝わったらしい。
むくれる一斉に謝りながら七於は浜辺へと一斉を引き連れて行く。
「だってさ、何か可愛かったんだ……」
「……お前は謝る気があるのか」
ごめんとかすまんとか悪いとか謝る言葉の合間合間で「可愛いからつい」などとわけのわからない言い訳をする七於を一斉はじろりと睨め付ける。
「だからすまなかったって……」
な?機嫌直してくれよ犬鳴さん。などと茶化したように言う時点で七於は反省をしていない。そう思い一斉は長くため息を吐いて辿り着いた波打ち際で七於の肩に寄りかかった。
「お、わ……」
砂に足を取られて僅かに重心の揺らいだ七於にそのまま容赦なく体重を預ける。
「ごめんって」
「もう聞いた」
「まだ怒ってるか?」
「……もう怒ってないよ」
初めからそこまで怒ってなどいなかった。七於と言葉の応酬をするのも、可愛いと言われるのも心の奥底ではちょっぴり小気味良かったから。ほんの少しだけだけど。
「……陽が沈むな」
水平線の彼方に沈みゆく太陽を眺めて七於がポツリと呟いた。雲一つない桃色と藍紫色の空で名残惜しげに輝く太陽は溶けた金属を流し込んだようにとっぷりとした光を放っている。「……陽が沈むのは、寂しいか……?」
七於の肩に寄りかかったまま、一斉が問いかけると小さく笑う気配がした。
「寂しくないよ。だって、この先も一斉がいてくれるんだろう?」
今日の夜も、明日の昼も。その先、ずっとお前がいるなら、寂しいことなんて何もない。
甘い砂糖菓子を口に含んだような、ふわりと優しい声音だった。
目の前の海に溶ける斜陽の雫が一滴、心に落ちてきたように一斉の胸の中にじわりじわりと熱い感情が拡がっていく。
愛おしさだった。愛おしくて、だからこそ切なくて一斉はきゅ、と唇を噛み締めた。
「……好きだ、七於」
じゅわ、と太陽が水平線に溶けたように消えた時、一斉はそう呟いた。
「っ……ああ」
喉の奥から低い声を溢した七於の肩は僅かに震えていた。
触れ合った身体から伝わる揺れが愛おしくて、ふっと口元が緩んでいく。
夜はまだ始まったばかりだ。ラバウルでいちばん長くて熱い夜だ。
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