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第7話
退院した納乃宮は、ひとりずまいの自宅のマンションに戻った。
リビングのソファにゆったりと腰をおちつけてから、前方の壁にかかった姿見にふっと目をやると、整った顔に軽い微苦笑をもらして言った。
「そんな恨みがましい顔をするなよ。だいたい、オレの自殺を邪魔したのはアンタたちのくせに」
と、部屋には誰の姿もないはずなのに、鏡を見つめながら、なおも続ける。
「ああ、たしかにオレは、事故に見せかけて3人も人を殺した。でも、さすがに良心が痛んだ。だから、自殺をはかったんじゃないか。なるべくデカいトラックが飛ばしてくるのを見計らって、歩道橋から飛び降りたっていうのに……」
ここで、さもオオゲサなタメ息をついて、
「トラックに衝突する寸前、勝手にあらわれて、勝手にオレの命を助けたのは、アンタたちじゃないか。恨みたいのはオレのほうだよ」
ナジるような口調で言ってから、
「“オレが殺した相手”が、“オレの自殺を止める”なんてな。とんだ予想外だったが」
と、ここで、からかうように小さく肩をすくめて、
「しかし、まあ、アンタらが現世にとどまり続けていられるのは、オレへの恨みが残ってるせいだものなぁ?」
さらに彼が言葉を続けようとした瞬間、室内にあったアンティークなレコードプレーヤーがひとりでに起動すると、ターンテーブル上に置きっぱなしだったアナログのレコード盤がまわりだし、スピーカーから大音量を鳴り響かせた。
ヴェルディ作曲、レクイエムの第二曲“怒りの日”。
タイトルにふさわしく、激情的なメロディーである。
同時に、姿見の上部が「ピシピシッ」と不穏な音をたてはじめると、鏡の上に細く長い亀裂が数条、ゆっくりと末広がりに伸びはじめた。
納乃宮は、しかし、平然と天井をふりあおぐと、
「おい、あんまり驚かすなよ。オレが心臓マヒを起こしたら、どうする?」
わざとらしく困惑した声をあげて、つぶやいた。
すると、まるでそれがスイッチのように、音楽がピタリと鳴りやみ、鏡の亀裂もその場でかたまった。
納乃宮は、いっそう深くソファに背中をすべり落としながら、ヒビ割れた鏡にふたたび目を向けた。
「以前は“あの世”なんてもの、少しも信じちゃいなかったが。アンタたちが、ナリフリかまわず必死に、コッチの世界にシガミついてるってことは、相当ロクでもないんだろうなぁ、“あの世”ってのは。悪党にとっては」
鏡にうつった彼の顔は、その実像と同じく、涼しげに微笑んでいる。
だが、その周囲には、いつの間にかユラユラと、白い煙のようなモヤがただよっていた。
「さぞや悪いことばかりしてきたらしいものな、アンタたち。他人の弱みにつけこんで、二束三文の壺やら仏像やらを法外な値段で売りつける、お決まりの手合いだったってな」
鏡に映りこむ白い煙のようなモヤは少しづつ濃くなっていき、細かな陰影を描き出すと、やがて3人の男の顔が浮かび上がった。
輪郭はボンヤリしているが、そろってバツの悪そうな表情ではある。
「ハハハ、図星みたいだな」
納乃宮は、ついに笑い声をたてた。
「だから、成仏したくないんだろう? この世への未練をなくして成仏したら、強制的に“あの世”行きだものな。悪党にとってのあの世は、地獄。……いや、そもそも“成仏”って言い方は、悪党にはふさわしくないか」
納乃宮の言葉に、白いモヤの3人組は、いっそう苦い顔つきをした。
「カタキであるオレが死んだら、アンタたち3人の恨みも晴れる。つまり、未練が消えて、この世にとどまる口実をなくし、自動的に地獄行き……」
3人組、いよいよ恨めしそうな目つきで、鏡ごしに納乃宮をニラミつけるが、いっこうに迫力がない。
「オレも、いまや3人も人を殺した悪党だ。死ねば間違いなく、アンタたちと一緒に地獄ツアーに同行することになるだろう。でも、その日程をできるかぎり先に伸ばして、安全な地上にとどまり続けたいアンタたちは、せいぜいオレを長生きさせなきゃならない。これからも、怨念うずまく守護霊として、カタキであるオレの命をせいいっぱい守ってくれ……」
***おわり***
2017/09/05:脱稿
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